和へ くうそう歩エム まほうのくにの まほうのはなし
ここは うちゅう
そこに まっかに ひかる ほしがありました。
でも そこにすんでいる うちゅうじんは まっかにひかる まほうのほしに
すんでいることを しりません。
まほうなんて ないと おもっているので
なにか じけんが おこっても まほうの かんてんからかんがえず
トンチンカンに じけんを りかいしています。
すると こんな ポエムに でくわします。
―
けいこく ケストナー
りそうを だくひとは それに とうたつしないように こころせよ!
そうでなければ かれは あるひ じぶんとは
にても につかぬ にんげんに なっていよう
―
なぜ おすもうでは わかっていたのに リンチさつじんを とめられなかったのだろう?
マルコは いぜんの しょくばのことを おもいだす
あしのわるい おんなのこが はたらいていた
すると やきゅうぶ しゅっしんの かちょうが
やたらと その あしのわるい おんなのこを よびよせ
たかいところの ものを とってこい
などと めいれいするのだ
あしのわるい おんなのこは あしを ひきずりながら
いったりきたり はしごを かけて よろよろしながら
たかいところの ものを とって にこやかに かちょうに わたしていた
わたしは はたから イジメみたいに みえて そのこうけいを
みるのが すきではなかったが
その おんなのこは えがおであった
13さいの しょうねんは なかまうちで 「カミソン」と よばれていた
かれは なぜ ころされなければ ならなかったのか?
だれか とくするひとがいるのか?
マルコは やくがい こうがいに はんたいかつどうちゅうに
けいさつに つかまりそうになったり つかまったりした。
くすり?ばいしゅん?かんきょう?ぐんじ?
おやの しょくぎょうと じけんは かんけいないとおもうけど
くすり・ばいしゅん・かんきょう・ぐんじに はんたい だったりしないかと おもう
18さいの しょうねんの おとうさんは トラックうんてんしゅ
しょうねんは ていじせい こうこうに かよっていて はけんろうどうしゃとして
はたらいたこともあるひと