25-1 | 宮崎光子のブログ

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()ることも()く、()ることも()

もともと()られるべきものは(なに)()いからである

菩薩(ぼさつ)たちは、「智慧(ちえ)波羅蜜(なみらみつ)」に依拠(いきょ)しているがゆえに

(こころ)にこだわりが()

こだわりが()いゆえに、(おそ)れも()

転倒(てんとう)した認識(にんしき)によって世界(せかい)()ることから(とお)(はな)れている。

過去(かこ)現在(げんざい)未来(みらい)三世(さんせい))の(ほとけ)たちも「智慧(ちえ)波羅蜜(なみらみつ)」に依拠(いきょ)するがゆえに

完全(かんぜん)なる(さと)りを()るのだ。

それゆえ、この「智慧(ちえ)波羅蜜(なみらみつ)」こそは

偉大(いだい)なる呪文(じゅもん)であり、

偉大(いだい)なる明智(あけち)[2] 呪文(じゅもん)であり、

()えるものなき呪文(じゅもん)であり、

(なら)ぶものなき呪文(じゅもん)であり、

すべての(くる)しみを(のぞ)く。

()なぜなら()真実(しんじつ)であり、(いつわ)りなきものだからである。

()さて、〕「(、)「)智慧(ちえ)波羅蜜(なみらみつ)」という呪文(じゅもん)()こう、

すなわち呪文(じゅもん)()いて()う:

"ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー"

()ける(もの)よ、()ける(もの)よ、彼岸(ひがん)()ける(もの)よ、彼岸(ひがん)(ただ)しく()ける(もの)よ、 菩提(ぼだい)よ、ささげ(もの)()()(たま)え)

()以上(いじょう)()般若心経(はんにゃしんぎょう)()である〕。()。)