25 なぜか般若心経にふれたくなりました。 | 宮崎光子のブログ

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25 なぜか般若心経(はんにゃしんぎょう)にふれたくなりました。

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般若心経(はんにゃしんぎょう) 現代語訳(げんだいごやく)

般若心経(はんにゃしんぎょう)


観音菩薩(かんのんぼさつ)が、

深遠(しんえん)なる「智慧(ちえ)波羅蜜(なみらみつ)」を(ぎょう)じていた(とき)

()(いのち)ある(もの)構成要素(こうせいようそ)たる()五蘊(ごうん)は「空虚(くうきょ)[1] であると(あき)らかに()て、

すべての(くる)しみと(わざわ)()という(かわ)()(わた)()った。

シャ(しゃ)リプトラ(りぷとら)よ、

(いろ)肉体(にくたい))は「空虚(くうきょ)」と(こと)ならない。「空虚(くうきょ)」は(いろ)(こと)ならない。

(いろ)は「空虚(くうきょ)」である。「空虚(くうきょ)」は(いろ)である。

(うけ)感覚(かんかく)(かん)じる(はたら)き)、(そう)概念(がいねん))、(ぎょう)意志(いし))、(さとし)認識(にんしき)する(はたら)き)もまた同様(どうよう)である。

シャ(しゃ)リプトラ(りぷとら)よ、

すべての現象(げんしょう)一切法(いっさいほう))は「空虚(くうきょ)」〔(」()ということ()特徴(とくちょう)とするものであるから、

(しょう)じることなく、(めっ)することなく

(よご)れることなく、(よご)れがなくなることなく

()えることなく、()ることもない。

ゆえに「空虚(くうきょ)」〔(」()ということ()(なか)には、

(いろ)()く、(うけ)(そう)(ぎょう)(さとし)()

()(みみ)(はな)(した)()()()く、

(いろ)(こえ)(かおり)(あじ)(しょく)(ほう)()

()()世界(せかい)眼界(がんかい))も()く、意識(いしき)(おも)われた世界(せかい)意識界(いしきかい))も()

無明(むみょう)()く、無明(むみょう)滅尽(めつじん)()

"()いと()"も()く、"()いと()"の滅尽(めつじん)()

「これが(くる)しみである」という真理(しんり)苦諦(くてい))も()

「これが(くる)しみの集起(つどいはじめ)である」という真理(しんり)集諦(しゅうてい))も()

「これが(くる)しみの(めつ)である」という真理(しんり)滅諦(めつてい))も()

「これが(くる)しみの(めつ)()かう(みち)である」という真理(しんり)道諦(みちてい))も()

(