「百芸を愛で一芸に秀でよ」 | PlatinumClubⅡ

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森圭吾の音楽人生「Platinum Club」の復活版

音楽にしてもなにをするにしても、人には幅広い知識と

柔軟性が必要だと思う。

楽器に限らず、あらゆる分野に最高の物が存在する。


ただ、それはその人という個人にとって最高のものであって

他の人にとってはたいしたものではないかもしれない。

しかし、そのたいした物ではない物に対しても見識を持って

接することが出来ないと、最高のものを判断することも出来ないということだ。


音楽の場であれ政治の場であれ、それが教育の場であれば

なおさら、そのことが重要性を帯びる。


自分自身がいかに広い心と柔軟性をもって対処できるかが

その人の芸の、または人間性の奥深さを計る尺となる。


日本人は島国である故に、様々な考えを受け入れるという

懐の深さを持ち合わせている人が少なく見受けられる。


そこにネット社会が追い打ちをかけ、ある単一の思想をもつ

集団に傾倒するという、特殊な様相をかいま見せるわけだ。

それは政治や宗教、はたまた芸術の世界もしかり。

その代表例が 「宗教団体」「政治団体」と呼ばれる人種だと思う。

月並みだが「オタク」と呼ばれる人種などは、その最たる物で

その「習熟度」にもよるだろうが、幅広い見識をもった

彼らエキスパートとなりえるだろうか?

一芸に秀でることは素晴らしいことだろうが

それを愛でるためには但し書きが必要だ。

「百芸を愛で一芸に秀でよ」と。


日本人は一度、長期間外国へ出て、自分たちしか持ち合わせていない短い

定規で物事を計ってみるといい。

ただの変わり者としてしか見られないと思うのだ。


どの分野であれエキスパートは存在するが、素晴らしいエキスパートになるためには

すべてをまずは受け入れ、自分の中、また人の考えを知った上で

理解し、融合し、結論へと導く、そんな柔軟性が必要だ。


我々の芸の道もしかり。

幅広い視野に立ち、受け入れ、取り入れ、捨てるべき物は捨てる。

その捨てるべき物を選ぶ時に、その人の器が初めて見えるのだと思う。


僕の教えている大久保教室で熱心なアマチュアの生徒がいる。

その人は教師をしているのだが、単一的な物事の見方、ちょうど

民主党のような見識の学校方針により、長年教えた学校を

去る決断をした。


教育に心血を注いだ結果が、保護者に媚びへつらう学校側との

意見の相違という結果を招いたらしいのだが、これが日本人の単一思考を

良く表している。

保護者にへつらうことが、自分たちの学校に長年尽力してきた

一人の教師の人生を奪うことよりも大切なことなのか!


狭い思考の中から生まれた非常に残念な結果だが、個人よりも

社会が強いという、非常に単一思想がもたらした悲劇だ。

自分の体を壊してまで抵抗する価値はないと決断されたらしい。

それよりこれまでの事により壊された心と体をいたわって

これからは人生をエンジョイして欲しいと願うばかりだ。



正直、この国は同じ問題を多数抱えている現状は誰もが理解している。

沖縄の辺野古もしかり、TPPの問題もしかりである。


にっちもさっちもいかない状況を生み出した政治家たち。

しかしそんな政治家を選挙で通したのも、また我々国民だということを

直視したくないがために、そのことはタンスに隠していはすまいか?


単にマスコミに世論誘導され、それがあたかも自分の意見だと錯覚する人々。

これが、日本の実情なのではないだろうか?


単一民族もわれわれ日本人が、幅広い思想を持ち、共有するというのは

無理なことなのだろう。だから正直、どこの政党が与党になろうが

結局は同じことだと結論づけるのは時期尚早なのだろうか?

せめて希望は持ちたいと思うのだが。


昨日のブログのコメントにしても、小さなちまたでの出来事と

思えるかもしれないが、世の中にはそれを良いと思う人と

それを受け入れられないという人もいるわけで、お互いが

それを認め合って次へのステップへと進めるわけで、

それが一つの日本人が国際的に通用する度量へ踏み出す小さな第一歩なのだと思う。

ただの笛吹の戯言だが、「百芸を愛で一芸に秀でよ」と

小さなブログからメッセージを送りたい。

そして、自分自身もしっかりと肝に銘じたいと思う。