絶対主義が全体主義を生み出す。ドラッカーの考察① | ソウルメイトの思想

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唯物論に対する懐疑と唯物論がもたらす虚無的な人間観、生命観を批判します。また、唯物論に根ざした物質主義的思想である新自由主義やグローバリズムに批判を加えます。人間として生を享桁異の意味、生きることの意味を歴史や政治・経済、思想・哲学、など広範二論じます。


西洋保守主義の源流とされるエドマンド・バークの考え方は、「経営学の神様」と称せられるピーター・ドラッカーに大きな影響を与えたようです。ピーター・ドラッカーといえば、企業における経営者やその後継者、上級管理職などでその名を知らない人はまずいないと思いますが、意外にもドラッカーの処女作は、ナチスドイツやスターリンの恐怖政治のもとに勃興しつつあった全体主義の起源とメカニズムについて詳述した「経済人の終わり」でした。ユダヤ人という出自を負うがゆえに生まれ育ったオーストリアを追われイギリスに渡り、さらにはアメリカへと渡ったドラッカーにとってユダヤ人絶滅を掲げるナチズムおよびスターリニズムのような全体主義は他人事ではなかったのでしょう。そして、処女作「経済人の終わり」の次に書かれたのが今回ご紹介する「産業人の未来』という著作です。


ドラッカーは、啓蒙思想に代表されるような人間の抽象的思考の絶対視が必然的に全体主義をもたらし、古典派経済学と共産主義とナチズムとは同じ系統に属する極めて似通った思想であることを「経済人の終わり」と「産業人の未来」の中で書いています。


「経済人の終わり」は1933年に書き始められ1939年に刊行されました。「産業人の未来」はアメリカが第二次世界大戦に参戦する直前の1942年に刊行されました。ゆうに70年以上前に書かれた本ながら、そこに記されたドラッカーの考察の意義と価値はいささかも古びていないと思います。


今回は、「産業人の未来 」第7章「ルソーからヒトラーにいたる道」の中に記されたドラッカーの絶対主義に対する批判を見てみることにしたいと思います。ドラッカーは「理性万能主義がもたらしたもの」という副題のもとに次のように書いています。


「政治や歴史の本によれば、今日われわれが享受している自由のルーツが啓蒙思想とフランス革命にあることは、ほとんど自明のこととされている。今日では、この考えがあまりにも広く受け入れられるようになったため、十八世紀理性万能主義の弟子たちが自由の名を独り占めして、自らリベラルを名乗るにいたっている。


確かに、啓蒙思想とフランス革命が十九世紀の自由に影響を与えたことは否定できない。しかし彼らが与えた影響は悪影響というべきものだった。過去を吹き飛ばすダイナマイトにすぎなかった。十九世紀が基盤とすべき自由の構築に対してはいかなる貢献も果たさなかった。

それどころか、啓蒙思想とフランス革命、および今日の理性主義のリベラルにいたるその弟子たちは、自由にとって許すべからざる敵の役割を果たした。基本的に理性主義のリベラルこそ全体主義者である。

過去二〇〇年の西洋の歴史において、あらゆるファシズム全体主義がそれぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上にはロベスピエール、マルクス、スターリンがいる。

彼らのすべてが、それぞれの時代の理性を万能とする理性主義の失敗から生まれた。彼らはみな理性主義のエッセンスを継承した。そして、理性主義に内在する全体主義的要素を、革命的専制における剥き出しのファシズム全体主義へと転換した。啓蒙思想とフランス革命は、自由のルーツどころか今日の世界をおびやかすファシズム全体主義の淵源である。

ナチズムの父祖は、中世の封建主義でも十九世紀のロマン主義でもない。それは、ベンサムであり、コンドルセである。さらには古典派経済学者であり立憲主義リベラルである。あるいはダーウィン、フロイト、そして今日の行動心理学者である」


リベラル派の方がこれを読んだら、頭から湯気を立てて怒りだしそうなことをドラッカーは書いていますね。でも、ドラッカーは単にリベラルが嫌いだからそう書いているわけではないんです。ドラッカーがそう考えたのには、もっともな理由があります。聡明で賢明なリベラル派の方は、どうか気を沈めてドラッカーの「理性の絶対化」という副題のもとで展開される主張に目を通されることをお勧めします。ドラッカーはこう書いています。


「啓蒙思想は人間の理性が絶対であることを発見した。この発見からその後のあらゆるリベラルの信条が生まれ、さらにはルソーに始まるあらゆる種類のファシズム全体主義の信条が生まれた。

ロベスピエールが理性の女神を据えたのは当然だった。彼の思想は、その後のいかなる革命よりも残虐だったが、本質はさほど変わっていなかった。フランス革命が、理性の女神を生身の人間に演じさせたのも理由のないことではなかった。理性主義の神髄は、絶対理性の完成を生身の人間に行わせるところにあった。

もちろん、シンボルやスローガンは変化した。一七五〇には、科学者が最高の地位に置かれた。その一○○年後には、功利主義の経済学者や快楽と苦痛の微積分を駆使する社会学者が、その地位に置かれた。今日その地位に置かれているのは、人種決定論とプロパガンダを駆使する生物学者と心理学者である。

今日われわれが戦っている相手も、一七五〇年当時の理性主義者、すなわち啓蒙思想家と百科全書編纂者によって理論づけられ、一七九三年の恐怖政治をもたらすことになった絶対主義と基本的には同一のものである。

もちろん理性主義とされているものが、必ずしもすべて絶対主義であるというわけではない。しかし、あらゆる保守主義が反動主義に陥る危険をはらんでいるように、あらゆる理性主義がファシズム全体主義に向かう要素をはらんでいる。

ヨーロッパ大陸について見るかぎり、理性主義に立つ運動と政党は、すべて信条として例外なくファシズム全体主義の要素をもっている。アメリカの理性主義においても、ファシズム全体主義の要素はヨーロッパの影響、特に清教徒の伝統として存在している。しかも、この前の戦争以降は、世界中のあらゆる理性主義が全体主義となった。今日では、いかなる注釈も必要としないほどに、あらゆるリベラルがその信条においてファシズム全体主義である。


しかし一九一四年以前の一○○年間、イギリスには、絶対主義ではない理性主義、すなわち自由の理に反せず、人工の絶対理性に基づくことのない真の理性主義があった。

同じようにアメリカにも、これと同じ時期、絶対主義の理性主義に対抗するイギリスのそれに近い理性主義があった。だが、ホームズ判事に代表されるこの自由で反全体主義的な理性主義の伝統は、アメリカでさえ主流とはなりえなかった。彼らもまた、奴隷解放論者や、南北戦争後の復興期における共和党急進派に代表される絶対主義の理性主義に圧倒されていった。

しかしこの伝統は、反絶対主義に立つ真の理性主義の象徴としてリンカーンを生んだ。さらには、アメリカの建国以来、最もアメリカ的な政治運動というべきポピュリズムとなって、現実の政治に影響を与えた。そしてニューディールが、理性主義の影響を強く受けていたことは否定できないにせよ、そのポピュリズム的性格のゆえに大きな成果をあげた。



一九世紀のイギリスとアメリカで見られた自由で建設的なリベラリズムと、啓蒙思想や今日見られる破壊的絶対主義のリベラリズムとの根本の違いは、前者が宗教とキリスト教を基盤としていたのに対し、後者が理性万能主義を基盤としていることにある。真のリベラリズムは、理性万能主義の否定から生まれていた。
…………

しかし今日、そのようなリベラリズムでさえ、アメリカとイギリスの一部に名残を残すほかは、世界中どこにも見当たらない。

今日リベラリズムとされているものは、理性万能主義そのものである。しかも理性主義者は基本的にファシズム全体主義者であるだけではない。本質的に著しく非建設的である。それでは、政治の場において失敗せざるをえない。そのうえ彼らは自ら失敗することによって自由を危うくする。なぜならば、彼らの失敗が革命的全体主義に機会を与えるからである。


理性主義が自由と相容れないということは、個々の理性主義者やリベラルに善意や良心がないということではない。理性主義を信奉するリベラルの一人ひとりが、自分こそ自由の側に立ち、暴政と戦っていると心底思っている。彼らの一人ひとりがファシズム全体主義の暴政とファシズム全体主義に関わるすべてのものを嫌悪していることも間違いない。しかも、ファシズム全体主義の最初の犠牲となるのは、決まって彼ら理性主義のリベラルである」


以下の文章は、現代日本のリベラル派の停滞と迷走を見事に言い当てていると思います。これを70年以上も前にドラッカーが書いていたということにドラッカーの慧眼をみないわけにはいかないと思います。


「だが、そのような個々の理性主義者の反全体主義的心情は、政治的にはまったく意味がない。つまるところ、理性主義は積極的な政治行動とは無縁である。役に立つのは反対するときだけである。批判と反対から建設的な政策への一歩を踏み出すことができない。しかも彼らは、自由に反する制度だけでなく自由のための制度にまで反対する。理性主義のリベラルは、その時代における不正、迷妄、偏見に対する反対に自らの役割を見出す。しかし彼らは不正に対する反対にとどまらない。自由で公正な組織や制度を含め、あらゆる既存のものに対して敵意をもつ。

確かに啓蒙思想は貴族的特権、農奴制、宗教的偏狭性を一掃した。だが同時に、地方の自治や自治体を破壊した。今日にいたるも、ヨーロッパ大陸の国々は自由に対するこの打撃から立ち直ることができないでいる」


以下に示す文章は、現代の規制緩和、構造改革万能論者に見事にあてはまるとわたしは思いますが、読者諸兄姉におかれましてはいかがお思いになられるでしょうか?


「理性万能主義は、手当たり次第に既存の制度に反対し破壊する。しかも破壊のあとに据えるべき新しい制度を生み出す力を完全に欠いている。彼らは建設的な行動の必要さえ認めない。彼らにとっては悪のないことだけが良いことである。抑圧的な悪しき制度を攻撃して葬り去りさえすれば、仕事は終わったと考える。

だが、政治や社会においては、代わるべき制度を生み出さなければ意味はない。社会は機能に基づく権力関係の上に組織されなければならない。

より良いものを作りあげてこそ破壊にも意味がある。いかに悪いものであっても、一掃するだけでは解決策にはならない。破壊したものに代わる何か機能する制度を置かないかぎり、社会秩序の崩壊のあとには、破壊したものよりもさらに質の悪いものが生まれる」


ドラッカーは理性万能主義にたいする批判の度をさらに強めて次のように書いています。


「理性主義のリベラルは、現実的に権力を手にするたびに失敗した。異常なほどの失敗の記録は、ときどきの事情や不運によって説明するわけにはいかない。本当の原因は、彼ら理性主義のリベラルに特有な政治的不妊症によってしか説明できない。理性主義のリベラルは常に自らの内面においても戦わざるをえない。互いに矛盾する二つの原理に立っているからである。その結果、彼らは何事かを否定することはできても自ら行動することはできない」


これもまた、痛烈な“理性絶対主義的”リベラリズム批判として今日なお有効性を失っていないと思います。ドラッカーは絶対理性の矛盾について以下のような書いています。


「一方において、理性主義は絶対理性を信奉する。昨日の絶対理性は、必然としての発展、あるいは私益と公益の調和だった。今日のそれは、諸々の対立は衝動、不満、分泌腺によるとの信条である。

他方において、理性主義は、絶対なるものは理性的な演繹の結果であり、説明可能であるとする。すなわち、理性主義のリベラルの本質は、自らが説く絶対なるものは理性に照らして明らかであるとするところにある。

しかしながら、絶対理性なるものは本来理性的な存在ではない。理性によって説明することも否定することもできない。絶対理性はその本質からして理性の枠外にある」

蛇足を恐れずに多少の補足を試みるとすれば、ある論理的命題が絶対に正しいことを証明することは、少なくとも人間のあたうところではないでしょう。なぜなら、そもそも“理性的に”考えるなら、人間の知的能力や認識には限界と制限がありますから、絶対に正しいことを知りえないし、何かを絶対に正しいと確定させることもできないとせざるをえないでしょう。ドラッカーは上記の記述に続けて「論理は、絶対理性なるものの上に構築できるかもしれないし、構築しなければならないとしても、論理によって絶対理性そのものを説明することはできない」と書いていますが、ドラッカーがこの文章を書いた時点ではすでにクルト・ゲーデルによる「不完全性定理」が発表されていて、人間の論理の数学的表現が完全なものでもなければ、無謬なものでもないことが、他ならぬ人間の“理性”によって確認されていたわけで、ドラッカーの主張には少なくとも数学の裏付けがあることは銘記されるべきだと思います。ドラッカーは次のように続けて書いています。


「この一五○年というもの、理性主義の基本教義は、非理性的だっただけでなく基本的には反理性的だった。

そもそも、啓蒙思想の理性主義的教義、すなわち人間を理性的存在とする教義がそうだった。人間の欲望の中に、見えざる手が公益をもたらすメカニズムを発見したとする一八四八年の功利的理性主義もそうだった。さらには、人間を心理学的な存在、生物学的な存在と見た二○世紀の理性主義がそうだった。

これらの教義は人間の自由意思を認めなかっただけでなく、いずれも人間の理性そのものを認めなかった。そしてそれらの教義のすべてが、やがて絶対支配者の手によって政治行動へと転化されていった」

古典派経済学は、人間は経済合理的に思考し、選択し、行動するという前提にこだわるあまり、人間が必ずしも経済合理的でない思考をし、選択し、行動する自由を認めない論理構造となっていますし、行動心理学や認知心理学、実験心理学でその存在が確かめられた生理的、心理的条件反応にのみ人間の選択や行動が制約され、束縛されるのだとすれば、人間は、機械のごときものとなってしまい、やはりそこに自由なるものは存在しないでしょう。ドラッカーは、それについて批判しているんでしょうね。ドラッカーの考察の続きに戻りましょう。


「かくして理性主義のリベラリズムは、自らの教義を理性の力によってしか政治行動に移せないことになる。そして必ず失敗する。

一方において、彼らは反対論を認めることができない。絶対真理に対する反対だからである。彼らにとって、絶対真理に対する反対論は何らかの間違いにすぎない。

理性主義のリベラルは妥協することができない。彼らの教義はいかなる妥協も認めない完全無欠のものである。光明を見ることのできぬ者は、いかなる関係ももつことのできない最低の人間というしかない。

しかし、理性主義者は、敵と戦い敵を押さえつけることはできない。彼らにとっては、間違ったことを教えられ、間違った判断をしている者たちがいるにすぎない。真理についての明々白々たる証拠さえ示してやれば、理性によってその正しさを知ることのできる者たちがいるにすぎない。

したがって、理性主義のリベラルは、陰謀をたくらむ者への聖なる怒りと、間違ったことを教えられた者の導きへの熱に燃えるしかない。

彼らは、何が正しく何が必然であって、何が良いことであるかを常に知っている。しかも、それは簡単で易しいものばかりである。だが、彼らは決してそれを実現できない。なぜならば、権力のために妥協することも権力のために戦うこともできないからである。

彼らは、政治的には常に麻痺状態にある。理論については過激、行動では遅疑逡巡、反対するときは強硬、権力を握れば無力、机上においては正しく、政治においては無能である」


重ねて申しますが、ドラッカーがこの文章を書いたのは、少なくとも70年も前のことです。にもかかわらず、日本のリベラルを代表すると自称する人たちや政党をものの見事に描写し、かつ痛烈に批判していて、その主張にはもっともな理があるとお思いになられないでしょうか?


今回もだいぶ長くなりましたので、続きはまた次回ということにしたいと思います。次回も啓蒙思想や理性主義、理性主義的リベラリズムについてのドラッカーの容赦ない批判をたっぷりとご覧いただけることをお約束いたしますので、お付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。