キリストの教え | 精神世界の中心でブレイクダンスを踊る

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興味深い動画を見つけたので、シェアさせていただきます。


聖書についての動画です。







私は、小学生の時にキリスト教系の小学校に通っていました。


毎日礼拝があったので、聖書は必ず読んでいました。


イエスには弟子があんなにたくさんいたのに、聖書に「○○による福音書」と名前が出てくる弟子が少ないのはどうしてなのだろう、とずっと疑問に感じていたのですが、やっとその謎が解けました。


宗教的な対立が原因で、無かったことにされてしまった文書が多数存在したのですね。


確かに、正統派のキリスト教からすれば、グノーシス派のキリスト教が主張する、教会や指導者は必要なく、一人一人が神の子であり、自らの内に神性を見出すことが出来る、という教えは非常に危険なものであり、もしそれを認めてしまったら、自分達の権威は失墜してしまいます。


正統派のキリスト教は、教会を通じて一般の人々と神を繋げるものとして機能していたからです。


ご存知の方も多いと思いますが、正統派のキリスト教における重要な教義の一つに「原罪」というものがあります。


これは、全ての人は生まれながらに罪を負っている、という教義です。


一体何の罪かというと、最初の人類であるとされるアダムとイブが神に背いて禁断の果実を食べてしまった、という罪です。


だからアダムとイブの子孫である私達人類は、皆平等に罪を負っている、ということになるそうです。


では、イエスはどうなのかと言うと、イエスを身ごもったマリアは、処女のまま聖霊によってイエスを胎内に授かったとされているため、アダムとイブに起源を持つ「原罪」を負っていない存在である、ということになるようです。


マリアは処女のままだったため、イエスの真の父は神である、という解釈です。


そして、その「原罪」を持つ罪深い人々を救うための機関として、教会が機能していたのです。


しかし、グノーシス派のキリスト教の主張のように、一人一人が神の子だとするならば、「原罪」は存在しないということになります。


(「原罪」については様々な解釈があるらしく、必ずしも上記の説明が当てはまらない場合もあります。)


「原罪」が存在しないという考えを認めてしまったら、正統派キリスト教は崩壊してしまいます。


だからこそ、グノーシス派のキリスト教を弾圧し、その教えを肯定するような文書を認めなかったのです。


また、教会に依存する人々が多ければ多いほど、コントロールがしやすいという理由もあったと思います。


教会のトップを政治的に利用すれば、信者を自由に操れるからです。


動画で言われているように、ニケーア公会議において、もし別の福音書が正典として認められていたなら、キリスト教は現在のものとは大きく異なっていたかもしれません。


きっと歴史も大きく変わっていたでしょう。




私は正統派のキリスト教を否定するつもりは全くありませんが、全ての人が生まれながらに罪を負っているという考えには疑問を感じました。


小学生の時は深く考えることもなく、ただ先生達に言われるままに聖書を読んだり、お祈りをしたり、聖歌を歌ったりしていましたが、改めて今考えてみると、私たちは罪深い存在なのですから神の愛で赦されましょう、という考えが根底にあったように思います。


私は究極的には善も悪も無いと考えているのですが、その考え方からするとやはり「原罪」は腑に落ちません。


では、正統派キリスト教と対立するグノーシス派のキリスト教の教えが正しいのでしょうか。


グノーシス派のキリスト教は、自らの内に神を見出そうと考えるため、内的探求によって精神性を高めることを重視する傾向にあるのですが、その反面、現実世界を軽視する傾向があるようです。


内的探求のほうが重要であり、肉体を通して体験する現実は取るに足らないものだと考えるのだそうです。


内的探求は私も好きですし、重要だとは思いますが、だからといって三次元的な現実は取るに足らないものだとは思いません。


三次元的な体験から内的探求が進むこともありますし、心と肉体の両方があるからこそ、バランスがとれるのだと考えています。


このように考えると、正しいとか間違っているという視点から捉えようとすること自体が無理があると気付きました。


バシャールも言っていることですが、やはり物事は中立であり、光があれば同じだけ闇が存在するのだと思います。


そのどちらかだけを見て、一方的に捉えようとするからバランスが崩れてしまうのではないでしょうか。


おそらくイエスはそんな対立は望んでいなかったはずです。


大事なことは、物事を多角的に観て、最終的に納得したうえで自分が選ぶ、ということなのだと思います。


これは、プラスでもマイナスでもない対象に、どういう意味を与えるのか自分自身で選択出来る、と言い換えてもいいと思います。


もしかしたら、本当の神の愛とは、どんな選択をしたとしても、全て受け入れてくれる、無限の自由のことなのかもしれませんね。


そうだとすると、「原罪」があるとしてキリスト教を信仰しても、「原罪」は無いとしてグノーシス派を信仰しても、またそのどちらでもない選択をしても、全てOKであるということになります。


更に言うならば、選択をしない、という選択をしてもOKなのです。


あくまで私の考えですが、イエスが伝えたかったことはそういうことなのではないか、と考えました。




イエスと似たような人生を歩んだ聖人として、ブッダがいます。


ブッダは、亡くなる時に


「私を信じるな。自分を信じなさい。」


と弟子に話したそうです。


ジョージ・ハント・ウィリアムソンという人の著書によると、ブッダとキリストは同じ魂であるそうです。


確かに、この二人の聖人は言っていることがかなり共通しているように思えます。


二人のアセンテッドマスターが伝えたかったことは、私達は本当に自由である、ということなのかもしれませんね。




読んでいただき、ありがとうございます。




ps.以前に「キリストの墓」という記事で書きましたが、イエスは双子だったという説があります。


木内鶴彦さんによると、磔になったのは弟のほうであり、イエス本人はシルクロードを経由して日本に上陸し、四国の剣山に向かったのだそうです。


剣山は様々な伝説があるパワースポットとして知られています。


何らかの理由があって、イエスは剣山に向かったのかもしれません。


青森の恐山にも、剣山という山があるそうですが、四国の剣山と霊的に関係があるのかもしれませんね。


青森にキリストの墓があることとも関係していると思います。


キリスト、調べれば調べるほど興味深い情報が出てきますね。


私のハイアーセルフがキリスト意識の存在であるためか、なんとなく親近感を感じるのです。



以前に書いたキリスト関連の記事をまとめてみました。


まだ読んでいない方は是非読んでみてくださいね。



「日本人のルーツ」

http://ameblo.jp/spiritual-b-boy/entry-11531358019.html  


「キリストの墓」
http://ameblo.jp/spiritual-b-boy/entry-11593564250.html  


「鹿島神宮」

http://ameblo.jp/spiritual-b-boy/entry-11598539248.html  


「ケルト十字」

http://ameblo.jp/spiritual-b-boy/entry-11614619039.html  



マスター  





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こちらも是非、体験してみてくださいね。



ガイド拝見の詳細です。

http://ameblo.jp/spiritual-b-boy/entry-11586503918.html  



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