ブログ更新804回目。

みなさんこんにちは。

 

1.神の御言葉

 

初めに、言葉ありき言葉は神と共なりき神は言葉なりき。』

と、ヨハネは、おっしゃった。

 

<以下、ヨハネ>

 ものみな、神の手により、この世に出で来たる。

創られたるものにして、神の御手によらず、出で来たるものなし。

 

 生命は、彼の中にありき。 生命は、人の光なり。

この光、闇の中に輝き、闇は、光に勝たず。

 

 彼は世に在りき世は、彼の手の下にありしも世は、彼を知らざりき

 

 彼は、己が身うちの許に来たれども、彼らは彼を受け付けざりき。

 されど、彼の名前を信ぜしものは、「神の子」らとなりぬ。

 

 これらの者は、おのれが、血に属せず(幽界に属せず)、肉の意思にもよらず、父なる神によりて、生まれたるを知る者なり

 

 この言葉が、神となりて、吾らの中にとどまりぬ

 

 ここに出てくる、「」とは、誰であるか?

 

2.神我

 

 答えは、「神我」である

 

 神我は、神の一人子にして、全人類に宿る『』である。

 

 この光は、この世に生まれてくる全人類の魂に、点火する光である。

 

 全人類の中に、神我たる光が実在する

 

 まことに、あなた達に告げるが、『生まれ出ずる嬰児(みどりご)は、すべて神の言葉によって生まれるのであり、その言葉とは、すなわち、久遠・永遠に生きる「神我」』である。

 

 このことに関して、肉は、何ら関知しない

 

 肉意識では、神我が理解できない最大の理由がここにある。

 

 神我を知るには、神我そのものになって、創造主=神を拝しなければならない

 

3.歩く神社

 

 あなた方が、やがて「神我」を知った暁には、あなた自身が神そのものであることに、何ら疑義は生じない

 

 であるなら、世に在って人間の姿形をしているあなた自身は、『生ける神の、宮』ではないだろうか。

 

 人間意識ではなく、神我意識である者は、自らが神であることを認めている者である。

 

 肉体は(やしろ)、意識は「神我=ご神体」ならば、あなた自身は、まさしく歩く神社『生ける神の、宮』である。

 

 自分自身が、「神の宮」ならば、初詣も、七五三のお祝いも、毎月の一日参りも、車のお祓いも、神社に行く必要は無い

 

 あなた自身が、自分で出来るのではないか!と言いたい。

 

 究極、時間の節約ができて、お賽銭は欠損しなくて済ませることが出来るのである。

 

 世界の何処にいようとも、あなたご自身が、「歩く神社」「歩くパワースポット」なのである‼

 

4.まとめ

 

 皆さんは、自分に内在する「神我の価値」を、ほとんど知らない

 

一度知ってしまえば、何ら不思議はなくなる。

 

 「明想」という、お参りをきちんと済ますことが出来るならば、世間の風俗・習慣は、外側のものであると気付くはずである。

 

 お正月に、きちんと明想が出来れば、立派な「初詣」である

 

今からでも、2022年の初詣には十分間に合う!

明想、はじめッ!

 

多くの人が、初詣を省略した、と祈る!