ブログ更新786回目。

みなさんこんにちは。

 

1.生命と肉体

 

 生命が、太初(初め)にあった

その生命は、創造主=神のエネルギー

 

 創造主=神のエネルギーは、生命エネルギーそのものである。

 

 「生命が肉体に宿り、肉体は神のご意思を、この世に表す」という仕組みである。

 

 間違っても、自分の肉体が、自らの自我の表現媒体であると思ってはならない。肉体は、神の表現媒体である。

 

 自我の肉体への表現は、五感の表現である。

 

 かねてから、指摘しているように、五感の表現は仮相の表現である。

 

 仮相は、実相の生命によって現れているだけである

 

2.ご主人と従者の関係

 

 ご主人(主体)は、実相=生命エネルギーである。

 従者は、仮相=肉体である。

 

 肉体が、勝手にご主人の意に背いて動くであろうか?

 

 ご主人が、右に行きたいと思ったのに、肉体が、勝手に左に行くことがあるのか? よく考えていただきたい

 

 肉体は、ご主人のいうことを、常に聞いて、動いている。

 

 創造主=神のエネルギーは、完全無欠である。

その完全無欠な生命エネルギーが、あなたの肉体に宿っている。

 

 心臓は、あなたが意識を失っている睡眠時間中も、休むことなく動いている

 すなわち、生命が、完全無欠なエネルギーの証拠である。

 

 あなたは、自分の五感の感覚が、自分のご主人だと、勘違いしている

 

 五感の感覚は、あなたの肉体の安全を守っている「情報システムとしての役割」である。

 

3.完全さと、不完全さ

 

 自我は、主観と感覚の積み重ねであり、常に不完全さを伴う

 あなたの肉体に宿る生命は神のものであり常に完全である

 

 あなたの肉体が、死や苦痛・不調和を示したら、自らに宿る生命で、肉体意識を「叱る」ことである。

 

 『自らに内在する生命エネルギー=神我は、完全無欠のエネルギーである。』

 

 この神我意識で、肉体を叱るのである(一人で呟く)

 

例えば、「いま、肉体に、痛みを伴っている場所がある」としよう。

 

 その時、『我は生命なり。完全なる御方(神我)が、この肉体を治すのである!』と、言明できたとき、瞬時に痛みは消えていく

 

 これが、イエス・キリストの奇跡的な故事として、聖書に収録されている「癒し」の実態である。

 

 わかってしまえば、奇跡は奇跡でなくなる

 

4.まとめ

 

 この奇跡を起こす力の源泉は、『自らに内在する神我についての深い理解と、それを信じる強さ』である。

 

 自我の感覚しか知らない無智なるものは、通常あり得ないことが起きると、奇跡が起きた!」という。

 

 神の実在を、受け容れ・深く理解するものは、通常あり得ないことが起きても、サイエンスとして理解できる

 

 そこには、奇跡というものは無い

 

 あなたが、あなた自身の病気や不調和を癒すことが出来ても、不思議でも・奇跡でもない

 

 『生命が、肉体を制御できる』のである。

 「自我では、肉体を制御できない」のである。

 

多くの人が、生命に気付き、肉体を制御した、と祈る!

ブログ更新785回目。

みなさんこんにちは。

 

1.水の清らかさ

 

 水は、一度たりとも汚れたことはない。

 

 人間は、「水が汚れた・水が腐った」という表現をするが、この表現は正しくない。

 

 「水が汚れた」ということを正確に言うと、「水に物質が溶け込んで、汚れたように見える」である。

 

 「水が腐った」ということを正確に言うと、「水に懸濁している物質が腐敗したので、腐ったように感じられる」である。

 

 それは、「水を浄化装置に通すと、水はきれいになる」から、水そのものは、決して汚れても、腐ってもいない

 

 水の浄化方法は、いくつもあるが、一番簡単なのは、「ろ過」である。

 

 化学物質などの目に見えないモノは、溶けている物質に反応しやすい薬品を入れて、沈殿させる方法もある。

 

 それでも取り除けない場合は、水に通電して、電気分解する方法もある。

 

 これは、水のコンサルタントの話になるので、ここで止めておく。

 

2.神我の清らかさ

 

 あなたに宿る「神我」は、一度も汚れたことはない。

 

 神我の上澄みとして「自我が浮かんでいる」ため、神我が見えないのである。

 

 人によっては、自我が何層にも重なっていて、神我が、丸っきり見えない状態の人が多い。

 

 勉強に勉強を重ねて、知識という自我が山積みになっている学者先生や勉強家・経営者が多い。

 

 学会に出席すると、面白みに欠けるのは、「神我が、自我隠れしている先生が多い」からである。

 

 神我は、神の愛であることを、思い返していただきたい。

 

 自我も、学問の世界の知識という自我と、人間の本能に近い五感を競う自我がある。

 

 自我同士だから、主張が衝突して喧嘩になることはやむを得ない。

 

 学問の世界の自我は、学閥・派閥を生み、陰湿な師弟関係(ハラスメント)に発展する。

 本能に近い五感を競う自我は、大喧嘩かゴシップを生み出す。

 

3.自我の除去

 

 神我を表現するには、水と同じく、自我を浄化すればよい

 

 神我に浮いている自我の知識や五感を、明想と自問自答で取り除くだけである。

 

 あなたの神我を覆っている自我は、「私は神だ!という強い言葉で、何度も・何度も、打ち消せばよいのである。

 

 自我が分厚いと、打ち消すのに時間はかかるが、やがて除去は完了することになっている。

 

 そのとき、あなたは、雪のように真っ白になるであろう。

 

 なぜなら、神我があらわれると神我の強烈な光に晒されるので周囲のものが一切見えなくなる

 

 それほどの、強烈な光である。

また、その瞬間は一切の音は聞こえなくなる

 

 なぜなら、五感の無い世界が、一瞬、現れるからである。

 

 自我の除去は嘘がつけるものではない

 

4.まとめ

 

 水の浄化も、自我の浄化も、純粋な本質を求めるという点においては、妥協が無い

 

 水を完全に純化すると、「超純水」になる。あらゆる物質を瞬時に溶かしこんでしまう水である(半導体の洗浄など)

 

 しかし、人間は、超純水を飲むと、生体バランスを崩す。

酸化力が強い」ことと、「絶縁体」だからである。

 

 神我も、人間生活が必要な期間では、完全に顕現されない方が良い。

 

 肉体人間が、完全に神我を顕すレベルまで行くと、肉体と神我の分離を引き起こす。

 

 すると、肉体を置いて、神我だけが天上界に入ってしまう。

この世の世界では、「死」である。

 

 ゆえに、神我を意識すると同時に、自我を取り去る努力を続ければ良い

 

 自我どっぷりの生活は、輪廻してしまう

 

 『私は神だ!』と、自然に発露するくらいまでは、努力していただきたい

 

多くの人が、『私は神だ!』と、自然に発露した、と祈る!

ブログ更新784回目。

みなさんこんにちは。

 

『これは、聖者方ご存命中)と、筆者当時45歳)の対談記録である。』

 

1.資格取得について

 

筆者:会社を辞めたので、「環境計量士」の資格を取りたいと思っています。

 

聖者方(以下「聖」):あなたに、そんな必要はあるのかな?

 

筆者:環境問題の解決には、先ず質量分析が要ると思いますが。

 

聖: 弁護士・技術士・医師・看護師などなど、歯ごたえのある資格から、原付免許まで、各種の資格が、ある。

 あなたの持っている資格は、何か?

 

筆者:普通自動車運転免許です。

 

聖:私もそれだけだよ。それで、十分ではないか!

  それ以外に、あなたに必要な国家資格は、何もないと思うよ。

 

筆者:飯のタネが、、、。

と、言いかけて、あとは、いつも通り「自問自答して答えを持ってこい」ということだな、と拝察した。

 

2.自問自答

 

一人になり、明想から覚めて、リフレッシュして自問自答した。

 

 『なぜ、大師は、この自分には「資格不要」とダメ押しを、したのだろうか?


 資格取得は不要であるということは、資格に頼らない飯の食い方があるということだな。

 

 それは、何か???

 

 資格とは、人間が作りだした仮相の仕組みである。

 

 資格は、その資格を取得した段階で、自分自身を自己限定する足かせになるな、、、

 

 名刺には、○○○士のような、士業の肩書がついて、仕事が転がり込むと思い込む。

 

 昨日まで素人同然のものが、資格取得した日を境に、いきなり仕事が入るような、ベテラン専門家にはなれない。

 

 理容師・美容師も、一人前になるには、人それぞれの見習い期間が必要であるな、、、。

 

 などなど、思いをめぐらしたが、確証は得られなかった。

 

3.翌朝のご指導

 

聖: 昨日の、対話の続きだが、何か結論は出たかな?

 

筆者:・・・多分、資格が、自己限定になるのでは、、、と言いかけたら

 

聖:そうですね!資格は、自己限定になってしまうのですよ。

自分の資格にに沿った仕事のネタを探すようになる。

 

 すると、どんどん専門のことばかり、深く追求するようになる。

ものの見方が、狭くなってしまうのだよ。

 

 神に近づくには人類はあらゆることを知らなければならない

 

 生きているうちに、あらゆる体験をしていないと、「実際に知ることはできない

 

 知るという意味は、知識を得ることではない

実際にやる・体験する、ということなのだ

 

 実際にやってみて、初めてわかることが多い。

 

 真理を語るには、体験したことは人にお話しして伝えても良いという重要な原則がある

 

 それが、『知識は悟りにあらず』という聖句の真実義である。

 

 あなたは会社員時代に、2~3年ごとに人事異動していただろう。 それは、あらゆる体験をさせるための異動だったのだよ。

 

そこまで、一気に話し終えると、大師は沈黙に入った

 

 引きずられるように、沈黙の中に居ると、至福の境地が伝わってきた

 これが、神の祝福を実際に体験した印象深い出来事であった

 

4.まとめにかえて

 

 私が、45歳で会社を辞めることも、天上界の筋書きであったかと、そのとき知らされて、身の毛がよだつ思いをした。

 

 同時に、自分の人生は、自分のものではなく天上界につながる架け橋なのかと、身の引き締まる思いであった。

 

 大師が、沈黙から覚めて、「わかりましたか?」と一言

 

筆者:「わかりました!」(と答える)

 

聖:「それで、良い!」

 視野の拡大には、資格はかえって邪魔になるのだよ。

 

 既に、資格を持っている人は、自分の専門分野を超えてモノを観・知識を蓄え・行動し・体験することが、人生の指針になる。

 

 改めて言う。『人間はあらゆることを知らなければならない

知識は、悟りにあらず』これだけは、忘れないでほしい。

 

朝のミーティングは、静かな雰囲気の中で、お開きとなった。

 

多くの人が、専門や資格にこだわらなくなった、と祈る!