『落穂拾い』1857年にフランスの画家ジャン=フランソワ・ミレー作

 

 

 

女性の社会的地位が認めらていなかった時代に異邦人ルツとその貧しい家族がイスラエルの歴史及び人類の救済史にお大きな影響を与えた物語。


【新共同訳】ヨハネによる福音書
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

聖書【新共同訳】 ルツ記
◆ルツの決意
1:7 故国ユダに帰る道すがら、
1:8 ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。
1:9 どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」ナオミが二人に別れの口づけをすると、二人は声をあげて泣いて、
1:10 言った。「いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります。」
1:11 ナオミは言った。「わたしの娘たちよ、帰りなさい。どうしてついて来るのですか。あなたたちの夫になるような子供がわたしの胎内にまだいるとでも思っているのですか。
1:12 わたしの娘たちよ、帰りなさい。わたしはもう年をとって、再婚などできはしません。たとえ、まだ望みがあると考えて、今夜にでもだれかのもとに嫁ぎ、子供を産んだとしても、
1:13 その子たちが大きくなるまであなたたちは待つつもりですか。それまで嫁がずに過ごすつもりですか。わたしの娘たちよ、それはいけません。あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」
1:14 二人はまた声をあげて泣いた。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。
1:15 ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」
1:16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。
1:17 あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」
1:18 同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。
1:19 二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた。
(引用ここまで。)

映画自体は、聖書ルツ記にはないその当時生贄(人身御供)として偶像ケモシュにささげられる幼子など予想される背景もあり、聖書の理解を助ける。一般的な見方として男女の恋愛が中心に描かれているように思いますが、聖書が伝えようとしている本質は男女の恋愛も含めてその発展形態を伝えようとしていると思います。
(ユング心理学では、アニマ、アニムスの統合とその発達過程)(英雄の誕生としての龍との戦い)

(※是非聖書を読んでみられることをお勧めします。なぜなら概念、文字に変換しての観念的な解説は物語の待っている生命力(ヌーメン性、身体感覚、言語化できないもの、気配)が失われるときがあります。しかも物語理解の本質でもあります。

(ユング心理学辞典、英雄p21、聖ゲルゲオスの竜からの王女の救出p23、アニマ、アニムスp4)

旧約聖書のルツ記は短い物語で読みやすいです。しかしその内容は、当時の偏った意識(ベツレヘムの飢饉→文化の病)に対しての(父性原理に対しての母性原理、ロゴス原理に対してのエロス原理、自我に対しての自己)補償の様に思います。そこからやがて国を統一するダビデが生まれ、その系図にキリストがあります。現在ユダヤ教の3大祭り、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭り、七週の祭りがあり七週の祭り(ペンテコステ)でルツ記が朗読されます。(それだけにルツ記は国、民族、時代を超えて普遍的な意味をもっていると思います。).........やがて七週祭はシナイにおける律法授与を記念する祭りに発展した。) ↓

故郷ベツレヘムの飢饉(偏った意識の結果)によって異教の地に出ていかざる得なかったこと{共通の集合意識の場では変容が困難(ex同調圧など)}、父性原理の象徴としての夫と2人の息子(キルヨン、マフロン)の死(異教の地→(異なる文化に適応するため自我の死)→(偏った硬直化した父性原理の死(奉献)(贖罪?)と母性原理の解放、特にルツにあっては異教から嫁いだ女性、より一層犠牲が求められる。)→その後変容(バランスの回復)が果たされてベツレヘムの祝福。 夫と2人の息子の死の意味について→ユング心理学辞典p61大穴牟知命、ヨブとその妻

ルツの夫人マフロン…病める者の意味、オルパの夫人キルヨン…消え失せる者の意味。当時の名は啓示(預言)によるもの?名は体を表す。すでに将来の苦難を暗示させる名前となっています。(陽極まって陰、陰極まって陽。エナンティオドロミア「逆転、反転」)

ルツの家族は集合意識の病を引き受ける(集団の罪を転嫁して荒野に解き放たれる贖罪のヤギを連想,旧約聖書レビ記16章)運命を背負っていたかもしれません?
アザゼルhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%82%BC%E3%83%AB

 

ヌミノーサムとは、目に見えるものに属する性質か、目に見えない存在の影響であり、それが意識の特異な変化を引き起こす。~カール・ユング、CW11、Para 6

"無意識の支配者 "と "意識の支配者 "が出会う時期が来ている。古い支配者の死は、王が死のうとしている事実によって示される。これは、西洋精神の集合的支配者である神像が病的であることと対応している。その死に備えて、王は古代の墓を開け、言い換えれば無意識を開く。これは、まさに同じ墓の中で死んで埋もれていた女性原理を、無意識の中で活性化させる。墓が開かれると、無意識は意識によって貫かれ、......そして活性化が起こる。" ~ーーエドワード・エディンガー

The numinosum is either a quality belonging to a visible object or the influence of an invisible presence that causes a peculiar alteration of consciousness. ~Carl Jung, CW 11, Para 6

"The time is ripe for the unconscious and conscious dominants to meet each other. The death of the old dominant is indicated by the fact that the king is about to die. This corresponds to the fact that the God-image, the collective dominant of the Western psyche, is moribund. In preparation for its death, it opens up an ancient tomb; in other words it opens up the unconscious. This activates the feminine principle, which had been dead and buried in the very same tomb, in the unconscious. As the tomb is opened, the unconscious is penetrated by consciousness . . . and a revitalization occurs.” ~Edward Edinger.



新共同訳】 コリントの信徒への手紙二 ◆新しい契約の奉仕者(3:1~18)

3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。 3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊(聖霊)によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

1:ヨハネによる福音書/ 03章 34節
神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。
口語訳
2:ヨハネによる福音書/ 06章 63節
命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。


引用(聖書 原文校訂による口語訳)解説より
「女性の個としての人格が全く認められなかった時代に、子供に恵まれず、やもめで、しかも異邦人という三重のハンディをおいながら、自己の良心の促しに従って、再婚の可能性を絶つような仕方で実家と故郷を捨て、モアブ民族の一員であることを捨て、民族の宗教を捨ててまでも、自分より不幸な条件にあるしゅうとめナオミの人生の道連れとなることを選ぶルツの決意(1:16-17)はルツとナオミ、その一族、ひいては全人類に神の救いが具現していく引き金となっている。」

ルツとボアズの結婚は、個を超えて→(無私)→(聖婚)={人間(自我)との結婚であると同時に神(自己)との結婚}。レビラート婚{モーセの律法の一つ『レビラート婚』です。申命記25:5~6。}と言う法的慣習にもとずいていて、人類救済にかかわる役割を負った民族の律法(自我)を貫きつつ、当時の律法{集合意識→夫の死によって結婚の契約が解かれる。オルパの選択}を越えた{自己の促し(集合意識によらず個の自由な意思によって姑に仕える。を貫いた。)}物語でもあると思います。(人間の思い計画を実現するためのものでなく、この地において神の思い、計画を実現していくための結婚であった。)


 

 

アブラハムのイサクの奉献(創世記22章)「ユング心理学辞典 創元社」p37」

自我は自らの利己的な要求を意識し、自らの要求を断念しなければならない時(カイロス)がある。 しかし、自我の利己的な要求が、集合的意識(フロイトの超自我)に反している場合、その放棄は個的なものかどうかは判別しにくい。

それに対して、自我の立場は集合的な意識と一致していながら、内的な力〔自己(聖霊)の促し〕に従って、要求を放棄しなければならないことがある。これは、義務感の葛藤を生む、息子の犠牲を迫られたアブラハムや娼婦との婚姻を迫られたホセアの状況である。(ナオミの勧めで相嫁は「自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。」しかし故郷へ帰り新たな嫁ぎ先をナオミのために(その後ろ姿にヤハウェの神を観た)断念したルツ)

アブラハム(ホセア)(ルツ)は犠牲を捧げるものであると同時に、捧げられるものである。この場合犠牲の行為の決定要因は すぐれて個的なものとなり、自己は対立物の合一として働き、聖なるものの直接経験(ヌミノース)が成立する。

 

ユダヤ、キリスト教の神との契約
 【新共同訳】創22;15
 「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。(角を取られた子羊)
 創22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い               

 自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
 22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
 22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 そしてこの約束はキリストの十字架において成就する。
 

(聖書 ホセア1章2節~)
1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」・・・ 3:1 主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。 イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」 3:2 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。 3:3 わたしは彼女に言った。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」

聖書【新共同訳】 ルツ
1:15 ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁(オルパ)は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」
1:16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。
1:17 あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」

 

>主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。 →ヌミノース、集合意識、相対化(同一化に対しての異化)
 境界領域に足を踏み入れて(死と再生)地上での役目を終えるか、新生して継続するか? 
 

(ヨナ書1章12節)「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は、、、、 
 

(出エジプト記)→第一世代はカナンの地を踏まず。ヤーウエとの関係での役割(意味)の自覚(信仰)
 

象徴的な死と再生。死の意味を象徴的に自覚できるか?   意味は再生に繋がる。
 

(ルツや義母のナオミ、遊女ラハブ、神殿娼婦になってユダの子宿すタマルも限界の向こう側に足を踏み入れた者、
ロトの娘達も近親婚禁止の法(集合意識)を破る。)(近親婚は神(ヤーウエの精神性を引き継ぐ者)との結婚を象徴)あるいは落ちるとこまで落ちて(死)神によって引き上げられた者(再生)、神に身を奉げた女性だったかもしれません。そういう人たちによって、後世代の人々に神の命が引き継がれていったのかも?。)
人間の計画ではなく、神の計画と導きに従って、そして人間の自由な意思の選択によって身を奉げることを通して、神の名が崇められるようになるためであった。

「ユング心理学辞典 創元社」 →イニシエーションp11 →ヌミノースp127→犠牲p35

聖なるもの (岩波文庫) →ヌミノースついて。 オットー (著), 久松 英二 (翻訳)

犠牲(いけにえ)
聖書【新共同訳】マタイ
10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。(創世記22章14節「主の山に備えあり」)

犠牲という語は二つの意味に用いられる。一つは捨て去ること、もう一つは断念することである。心理学的に考えると、いずれも犠牲に適切な意味であるが、神聖化する、聖別化するというこの言葉の元来の意味がそこに十分汲み取られていない。断念という行為は、その人の現在の意識より高次にあり、なんらかの秩序を導きうる原理を承認することに等しい。

われわれは人生のいずれかの時点で犠牲を要する場面に召喚される、とユングは認識した。すなわち、神経症的であろうとなかろうと、それまで暖めてきた心理的態度を断念する場面である。そのとき、その場その場の適応にたいする要求のたかさを、断念への要請が必ず上回る。より大きな意味や意義をもつと思われることのために、自我の立場を意識的に諦める。

この事態をめぐる選択は困難であり、また、ある一つの視点から別の視点に移行することも難しい。この事態は、無意識内容が現れ、対立するものが葛藤を生じるときいつも、暗黙のうちに現れるパターンである、とユングは考えた(イニシエーション、変容)。

犠牲は、われわれが意識をもつことにたいして払う代償である。(アダムとイブ、知恵の木の実)

犠牲に捧げる供え物はその人の人格や自尊心の一部を象徴する。しかし、人が犠牲を供するそのときに、犠牲の意味に十分気づいていることはあり得ない。神話や宗教の伝統的観点に立つと、供えものはすべて、あたかも壊されるためのものとして供えねばならない。

したがって、犠牲についての考察を進めると、神イメージとの関わりにおいても犠牲が意味を持つことに、直接的、間接的に必ずたどり着く。 ユングは、太古の迷信の名残ではなく、我々が人間であるために支払わねばならない代価の本質として、犠牲の必要性をとりあげた。

自己が私に犠牲を求めている(自己の促し)とするのが論理的な説明であるが、それでもなお、関与するこの二つの関係は明らかにならない。{キリスト教的には明らかである。内住の聖霊が促す。}

分析の中でそのような交換関係に気づくと、こころの宗教的機能に目を向けざるをえなくなる。しかし、多くの分析家は、おそらく宗教的機能の分析と宗教の分析を同じとみなす誤りのため、そこに目を向けることに尻込みをする。しかしながら、犠牲について理解をもつことで、失われていた意味の現存が確かめられ、しかも、崩壊の勢いを逆転させることも多い。