パリも紫陽花の美しい季節。


「アーティストの真の価値は、リスナーを喜ばせることではなく、社会や文化に新しいアイデアや探究心を提示することだ」



これは大好きなアーティスト、チック・コリアの言葉である。


この言葉に警笛を感じるのは、現在コンサートの場では「聴衆を喜ばせる」こと、教育の場でも、「生徒を喜ばせる」ことに焦点を置き過ぎた結果、文化が停滞し崩壊しかけているのではないか、と言うことである。


家庭でも、「子供を喜ばせる」ことに焦点を置いた結果、子供は自己中心になり、結果社会に対応できない、自分の目線でしか物事を見られなくなっている子供が増えているのではないかと思う。


日本ではこの点どうなっているのか知らないが、「子供を喜ばせる」そして「大人の時間を自由にする」、現在のフランスではそのソリューションの最たる例が、かなりの若年齢で「スマホ」を買い与えることである。子供は自分が大人と同じ自由な立場になれたと喜び、両親はもう自分が子供の世話をせずに自由な時間ができるので、この「自由の交換」に、大人も子供も祝賀ムードである。だから誕生日のスマホのプレゼントは非常に多いのだが。。。(これは「自由」を美徳とするこの国の落とし穴だ)、しかしその子供たちの数年後。18歳の成年を目前とした父兄たちは、音楽院の先生である私に縋り付いてこう言うのだ。


「私の子はスマホばかり見て、全ての習い事を辞めてしまった。もしここで音楽まで辞めてしまったら、もう彼女はスマホを見ること以外何もしなくなってしまうだろう。お願いです、どうか彼女に音楽を続けさせることはできないでしょうか」


とは言われても、こういう親の生徒たちは全く練習しない、レッスンに来ても全く興味がないので何年経っても何の成長もない、楽譜は忘れる、遅刻はする。酷い生徒になると、オーケストラの授業中に何度注意してもスマホをポケットから出して見ている。もう完全に薬物中毒の次元なのである。


そこである生徒に、「あなたのお父さんは続けてほしいって言っている。あなた自身は本当はどう思っているのか、正直に言いなさい」


って聞いたら


「私はもう音楽はやりたくないの。ここに居ても自分に気にいるものがほとんどないんだもの」


私の答えはこうである。


「あなたは自分が座って動かず、周りのものが自分に気にいるか、それにしか興味がないのね。スマホのSNSをスクロールして見ているように。。。自分からそこに出向いて行って、行動しそれを試してみる、という考えが微塵もないのなら、これ以上音楽院にいても何の意味もないね」


父兄は自分自身がスマホを渡しておいて、後になって「心配だからどうか子供を見てほしい」という。

もう音楽を学ぶ場は音楽を学ぶところでなくなっている。そこは子供をスマホから離せる、という唯一の両親の懺悔の場だ。。。いやいや、音楽院に来たって、帰ってからスマホを見ているのであれば、当たり前だけど学んだことはすぐに忘れるし、来ても亡霊のようにそこにただ居るだけである。魂は完全にスマホに乗っ取られているのだから。


タバコやアルコールはどんどん規制の一途を辿り、今では当たり前だけど未成年はやったらダメだし、タバコは値上げに次ぐ値上げで手が届かなくなり、フランスではかなりの人の健康が向上したのではないか。10年後、国力を守るために未成年のスマホはきっと禁止されていくに違いない、そうならないと社会は崩壊する、と私は危機を肌で感じる。


とまあ、話は最近頭にきている「スマホ」問題に飛んでしまったが、最初のチック・コリアの言葉に戻ると、


実はこの安易な「誰々のために」と言う都合のいい標語で、聴衆や生徒や子供に擦り寄って自分の世間的な点数を上げ、インスタ映えを良くし、(だいたい最近はいいね👍が多くつくほど良いというイリュージョンがあるから余計に) 本来の芸術のインスピレーションというものを忘れている人(または、はなから理解出来ない人)が上に立っていると、そのうち芸術は崩壊すると思う。


本当の「自由」、本当の「喜び」とは、そんな薄っぺらいもんじゃない。だいたい本当の自由には「喜ばなかったらどうしよう」「音楽辞めたらどうしよう」「いいね👍が付かなかったらどうしよう」なんていう「恐怖」はない。


どの時代にも「ベルリンの壁」のように壊すべき壁はあると思うが、現代の壁は「カネ至上主義に乗っ取られ制御不能になったテクノロジー」であることは言うまでもない。