実家と、生家そして生母の実家の航空写真〔2〕 | spinflopのブログ

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(2022年1月から~) 
両親が亡くなり空き家となった実家の売却と確定申告日記(2023年6月納税完了)。遺品・写真から亡父母の生前を振り返り菩提を弔う。そして父の遺品の一眼レフカメラSONY α350の交換レンズを購入し使い倒す。

前回の続き。

今回は生母の実家。

明治38年3/22生まれの祖父は、昭和11年4/20に曾祖父が存命中に家督相続をし、さらに、戸籍上では昭和32年7/13に、秣川岸通1-2303から、この記事の「実家」へ転籍している。

 

国土地理院の一番古い写真は1948年と言うものがあった。ファイル名にはUSAとあり、占領軍(米軍)によるものであろう。

まだ、生家はおろか、生母の実家も、こちらへは未だ越して来ておらず、新潟島の秣川岸で楽しく暮らしていた頃である。

 

▽1948年5/7、ファイル名は「USA-R1389-37」とある。

 

 

▽1948年5/7、上の写真を拡大したもの。

上部の広大な空き地は、砂山である。呼び名は、大山(おおやま)であった。

一軒だけ、山の南側の麓に小屋が見えるが、既に何か工事(いずれ病院が建つ)が始まっていたのだろうか。

山頂に病院が出来てからは「病院山」と呼ばれていた。

右側に垂直に走っている線路は、国鉄沼垂駅からの貨物引き込み線である。

上で、生母の実家も未だ越して来ていない、と書いたが、よく見ると、中央部の少し下に、家と、空き地を挟んで小さな小屋、の二つが見える。右側の小さな小屋は、物置小屋か、トイレなのか、、、。

法事で新潟に行った際に、S叔母から聞いた話では、体が不自由になった曾祖父は、昭和32年1/21に亡くなるまで、お妾さんの古町芸妓と、ここで幸せに二人暮らししていたらしい(曾祖母は既に昭和十一年に死去)。

 

 

▽1952年10/27、大きな病院が建築中である。

生母の実家の土地も、上の写真の小屋は壊され、少し別のところに少し大きめの家と小屋が建て直されている。

また、空いているところにはいろいろ植えられているようだ。

上で戸籍上の転居は昭和32年(1957年)と書いたが、下の写真に見られる通り、数年間かけて少しずつ移して行ったのであろう。

 

 

▽1953年5/20、依然としてファイル名にはUSAの文字が入る。日本は既に独立しているが、米軍の日本撤退が完了したのは1958年である。

山の上に建ったのは、病院である。当時、結核患者が収容されていると言われていたが、良く分からない。

右側の貨物専用線路も健在。

また、生母の実家の小屋も健在。曾祖父はこの四年後、1/21に亡くなり、一家全員で引っ越して来るのは、戸籍上昭和32年7/13である。

 

 

▽1962年の写真 生母の実家は七人兄弟で、長男一家、次男一家が一緒に暮らす「ハイパーサザエさん一家」であった。

既に二年前の1960年に長女(自分の生母)が嫁ぎ、またこの年、父親(自分の祖父)が亡くなったが、依然として大家族(十四人)であった。

アパート経営(実家の家の南側)や、炭とオガタン・オガライトの販売などで、商売は上手く行っていたようだ。

土地には隙間なく、いくつかの家か小屋が、ぎっしり建っている。

次男一家は離れの小屋の二階に住んでいたようだ。家業そのものでなく、ジュース用の木箱から始まり、木工製品を扱う商売を始めていたようである。

 

 

▽1973年8/12、どんどん大きくなる病院。そして、周りに植林されている。

この頃は既に結核病院ではなく、高齢者向けの療養施設化していたようである。

解像度が低いので、生母の実家の家の詳細は分からないが、建物が目一杯建っていることだけは確か。

既に、次男夫婦は別の場所に土地を買って他所へ引っ越して行った。祖父が亡くなった後、昭和四十年代前半である。

自分は当時小学生であったが、毎日のように、母親の実家へ遊びに行っていた。

冬場に、この「大山(病院山)」の南の斜面でスキーをさせて貰ったことがあった。

 

 

▽2009年4/30、旧病院は完全に改築され、療養所と、そして、左側部分は公園になった。

また、貨物の引き込み線は廃線になった。

また、既にこのとき、生母の実家は事業の失敗で人手に渡っている。

 

次回はいよいよ、自分の生家。