戦前の写真なのか? | spinflopのブログ

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(2022年1月から~) 
両親が亡くなり空き家となった実家の売却と確定申告日記(2023年6月納税完了)。遺品・写真から亡父母の生前を振り返り菩提を弔う。そして父の遺品の一眼レフカメラSONY α350の交換レンズを購入し使い倒す。

実家1で発掘した、父方の親戚の写真。いずれも亡くなられてしまい、いつの写真なのか、誰の写真なのか分かる手筈がなくなった。

現在から、半世紀を超える時間軸を手繰って行く。

【※ご関係の皆様、もし、失礼がありましたらご一報下さい。】

 

・【2005年】

芳寛さん(1949年生、2016年没)、父親の従弟である。自分にとっては何にあたるのだろう。

芳寛さんには90年代、自分が仙台に居た頃に「雪国あられ」や「りゅうと」(ぬれおかき)を、たくさん送っていただいたことがある。

以前記したように、私《Spinflop》の一番の大好物は、雪国あられである。

  
(いずれも「酒場で歴史を語る会」のサイトから、勝手に借用させていただきました。左側の方が少し新しい写真のような気がします。)

 

 

・【1990年】

上の芳寛さんのお父様、種三郎さん(大正11年/1922生)と、奥様Yさん。

種三郎さんは、自分にとっては大叔父となる。
写真は、自分の実母(1978没)の、十三回忌でのお斎。この時、種三郎さんは68歳。

種三郎さんの父母は、種作・ハナ、そして、種作さん(自分の曾祖父)の父母は、浅四郎・キテ(嘉永五年生まれ、父 藤田儀平)


父の香奠帳を見返すと、場所はホテル新潟とある。祖母の十三回忌を二年早めて一緒に行ったときだ。お寺へのお布施はその分、いつもより多く五万円、御膳料1万、志1万、合計七万円と記してあった。

 

 

・【1972年】

▽種三郎さん(左、当時、50歳)と、奥様(中)、そして長男、芳寛さん(当時、23歳)

 

▽同日に撮影。左から、種三郎さん、芳寛さん、父、そして、右端が健次郎さん(種三郎さんの従弟、昭和3年生/1928)。

健次郎さんが、ご一家(奥様とお嬢さん)で新潟に来られ、父と一緒に種三郎さんの本家(父にとっては叔父)を訪ねたときに撮影したもの。

上の写真には、健次郎さんのご家族も写っているのだが、みなさんご存命なので、掲載しないことにした。

また、このとき、つまり、健次郎さんが小山邸を訪問した際に、自分も一緒に行くように父からも健次郎さんからも言われたのだが、断ったのを覚えている。「普段、全く行ってもいないし、面識もないのに、こんなときだけ顔を出すのはいやだ!」と言ったところ、父は納得していたのを覚えている。

 

 

 

ここからが難しい。実家1の最後の片づけで、今回、発掘された、貴重な写真。

 

・【1962年頃】

▽芳寛さん(当時13歳)と、その祖母ハナさん(明治18年生/1885)、当時77歳、最晩年。
ハナさんは自分の曾祖母であり、また曾祖父種作の妻である。

彼女の父母は、金多賀近吉、キンで、その長女、明治18年生。

彼女は、自分が生まれたのを見て、「ふにゃふにゃだねぇ」とにこにこ笑っていた、と言うのを祖母タネから何回も聞かされている。

残念ながら自分自身はハナさんの記憶はない。

 

 

・【1948年頃?】

▽中央の新郎が、種三郎さん(1922年生、自分の大叔父)、右端が、その母上ハナさん(1885生、自分の曾祖母)、後列中が姉のタネさん(1904生、自分の祖母)。

当時、タネさんは40代半ば、ハナさんは60代後半、と言うことになる。

なお、タネさんの右は、彼女と再婚した作一氏であると思われるが、1952年に離婚しているため、この写真はそれよりは前に撮影されたと言うことになる。

さらに、芳寛さん(種三郎氏の長男)が、1949年生まれなので、それよりも前である。これは、『酒場で歴史を語る会』のサイトで、彼の新聞投稿2013.8.16の記事が転載されており、年齢が64才となっている。よって、1949年生まれ、と言うことになる。

一方、写真に姿の見えない、種三郎さんの父の種作氏(明治11年生、自分の曽祖父)は、1937年に亡くなっているので、それよりは後と言うことになる。

もし、表題の予想通り、1948年撮影だとすると、種三郎26歳、その姉タネ44歳、母ハナ63歳、と言うことだ。もう少し前かも知れぬ。

 

祖母タネの戸籍には、弟である種三郎氏の名前は掲載されているが、彼の結婚については全く記されていなかった。

種三郎さんは自分の大叔父なので、自分は、直接は戸籍を取得することが出来ず、これ以上調べようがない。

Google検索すると、種三郎氏のお孫さん(芳寛さんのお嬢さん、つまり、自分のはとこ)は健在で、ご活躍中であるが、残念ながら、自分とは全く面識がない。

戦後すぐの結婚式と言うことだろうか。上記以外の人は全く分からない。媒酌人が新郎新婦の両側に居て、両端がそれぞれの母親であろう。父親は両家とも、既に亡くなっているものと思われる。

 

後列の真ん中が、姉夫妻(タネさん=自分の祖母)で、残りの五人(男性四人、女性一人)のうち、何名かは新郎側、の親戚であろう。

しかし、長男(浅一郎、昭和6年、病死)、次男(種次郎、戦死)は既に亡くなっており、親族は女性だけである。ハナさんの実家、つまり、種三郎氏の伯父たちなのだろうか。

左端の女性がもし、新郎側の親戚であれば、姉(シズ、コウ)か、妹(タヅ)であるのだが、立っている位置は新婦側であり、何とも言えない。

 

 

・【戦前、1931年頃?】

▽最後、最も古い写真。新潟の古町通りか、上大川前通りで撮影されたスナップ。確かに写真はかなり黄ばんでいた。モノクロモードでスキャンした。

自分の曾祖母ハナさん(1885生)と、健次郎さん(1928生、自分の祖母タネの従弟)ではないだろうかと考えている。

負ぶさっている子供は確かに、健次郎さんの面影がある。

彼の母ハルさんは1936年、彼が8歳のときに早世し、親権は伯父の種作氏が「就職」 した。戸籍には、

親権を行う者なきに因り後見開始同日後見人戸主K種作就職に付届出

と書かれている。しかし、その頼みの綱の伯父、種作氏も、翌年(1937)、亡くなってしまう。

健次郎さんの後年の名字は本家のものとは異なるのであるが、今となっては一体、誰に引き取られたのか分からない。

今考えると、とても深刻な状況に思えるが、父は生前、以下のような、意外なことを言っていた。

(父曰く)

戸籍だけ見ると、健次郎さんは可哀そうに見えるけど、当時はは全くそんなことを感じなかったなぁ。

子供の頃、健次郎だけ、祖母(ハナさん)から、沢山小遣いを貰っていて、あいつだけいいなあ、って、羨ましくて仕方がなかったよ。

その後、健次郎さんは、マツダランプに就職し、さらに、大会社オムロンで働き、優しい奥様と可愛いお嬢様に恵まれ、さらに彼女の結婚まで見届けて亡くなったのであり、「結果オーライのハッピー人生」 だったと言えよう。

 

上の写真では、優しい伯母さんにおんぶされて安心しているのだろう。背中の健次郎さんが3歳であるとすると、1931年頃、つまり戦前の写真と言うことになる。

当時、ハナ曾祖母は46歳、であり、確かにその容姿は、上の婚礼写真よりも大分若い。

なお、父親のアルバムには、1940年撮影の父自身の写真や、1921年撮影の祖母タネの写真が貼ってあったので、その当時の写真が残っていること自体は不自然ではない。

 

自分の祖母タネも、二回の離婚をしているが、息子(自分の父親)がそんなことを苦にしていたとは全く思えないのは、ひとえに、このハナ曾祖母のおかげではないか、と思える。

 

いずれの方々も既に亡くなられてしまったので、詳しいことを訊ねようがないのであるが、自分個人から見ても、社会的に見ても偉大だった人々ばかりである。南無阿弥陀仏。