海を渡る鳥はどこに死に場所を探す

持ち主をなくした愛はどこをさまよう

 

愛をなくした魂は荒ぶる海となり

頭上の愛を求める

そこは危険だ

熟練した船頭が叫ぶ

 

濃青の海は勢いを増しながら

舟を沈めんとする

まわれ まわれ

愛はまだ幼い

唄え 唄え

お前の愛は既に亡者なり

 

風はどちらに加戦する

まわれ まわれ

ヒュールヒュール

ただ挽歌を唄うなり

 

じきに風は止むだろう

死者の追手を逃れて

青空の止まり木で休むがいい

 

 

 

 

 

 

 

 

たまには科学の記事を。

 

自然現象はエントロピー最大の要請とエネルギー最小(極小)の要請、どちらを選択するのだろうか。これに対する答えは対象とするシステムが孤立系、閉鎖系あるいは開放系であるか、平衡系であるか非平衡系であるかにもよると考えられる。場合によっては線形であるか非線形であるかもシステムの安定性に影響を与える系の性質になるであろう。

 

平衡系と非平衡系を考えよう。平衡系ではまだ状態の運動の様子を表す軌道の分岐は起こっておらず、系の時間発展は唯一の軌道で表現されるため、確率論は馴染まず後者の要請が採用されよう。

何回かの分岐を経た非平衡系(詳細つり合い、detailed balanceが成り立たないシステム)での時間発展は、分岐点において、どのブランチを選択するかで確率論的な要素が大きくなり、ランダムさの指標である前者の要請が強くなると思われる。

 

古典力学では、例えば運動の第二法則は力は加速度に比例することを主張するが、この運動方程式は時間反転 t → -t なる変換に対して、形が不変であるから時間対称性があり、可逆的である。可逆であるということは、理想化された単振り子のように時間が一方向でないことを主張する。古典力学では、運動は相空間での軌道で表現できるものであり、初期条件と境界条件が決まれば、その後の状態の時間発展は決まってしまう。未来発展において状態の確率論的な選択性は認められない。単振り子のような軌道の存在の一意性という決定論的意味において古典力学は、エネルギー最小を好むと言える。

 

量子力学ではどうだろうか。量子力学においても、運動は時間反転に関して対称なシュレーディンガー方程式が支配しているため、運動は可逆的ということになる。やはり運動はハミルトニアン最小の要請に従うのではなかろうか。蛇足だが量子力学と古典力学との相違は、古典力学においては運動は軌道になるのに対し、量子力学では運動は波動関数で表現されることになることである。

 

一方古典力学、量子力学と対峙する熱力学では、熱力学第二法則より、エントロピーが増大する方向に状態が発展し、いわゆる「時間の矢」が存在する。運動は時間の一方向にのみ進んでいくものと考えられる。熱力学においては、運動はエントロピー増大の要請が支配的となるだろう。エントロピー最大の原理の体現となる現象の例としては、持論だが、巨視的な分野では結晶格子でのヤーン・テラー(Jahn–Teller )効果や、微視的な分野では素粒子論での南部・ゴールドストーン(Nanbu-Goldstone)励起が挙げられると思う。

 

我々の宇宙は、果たして、神様がサイコロを投げた後のように決定論的にもう既に決まってしまっているのだろうか、それとも、意志という選択行為が介在する確率論的な世界なのだろうか。

物理学や化学の分野におけるようなある意味組織化されていない現象は、エネルギー最小を好み、生物学におけるような極端に複雑化した系は、エントロピーの要請を好むような気がする。

 

 

 

 

貴女の愛に触れた時

僕は愛の痛みを知った

 

まるでガラス細工のパームツリー

その美しさは触れてはいけないものなの

 

孤独を抱きしめ自由を誇る

でも君は愛を拒む弱さも知っているはずだね

それは君自身のことだから

 

自分のために生きて欲しい

孤独を棄て

愛を奪えばいい

 

生まれた朝の産声

ただ無邪気な愛の叫び

その唇に再び

そして僕の愛を見つめて欲しい

 

愛が愛を拒むのなら

君の痛みで愛を傷つければいい

その時君は僕の愛の意味を知るだろう

 

痛みを知った涙が頬伝うよう

我ままに生きればいい

 

 

生まれた朝の光の如く

僕はここにいる

痛み知らぬ愛の祈り再び

僕に聴かせて欲しい