ノワール、警察小説、時々音楽 -3ページ目

ノワール、警察小説、時々音楽

一介の大学院生による読解の軌跡。

 しかし、テキーラは探しにきたきタルシスをまだ見つけていなかった。それは、たぶんわたしの責任だろう。彼が必要としているものがなにか、少なくともある程度はわかっているつもりだ。でも、どうやったら与えられるのかわからない。彼の言うとおりだ、われわれは傷ついている。そして、彼はどうにかしてそのことと折りあいをつけなければならない。だが、わたしにこの先の人生はないから、わたしにとってそれはそっとしておくほうが楽なのだ。テキーラが直面するものがなんであれ、彼は一人で立ち向かわなければならないだろう。こんなふうになるはずではなかった。だが、ものごとはたいていうまくいかないものだ。

「ぼくはヒーローになった気でいたんだ」彼は言った。

「ああ、そうだな、それはよくある間違いだ」(文庫版 371,372頁)

 

 格好いいおじいちゃん万歳。無頼老人万々歳。

 

 警察小説は、あるいは小説の警察は老いと親和性が高い。ヘニング・マンケルのヴァランダーしかりRDウィングフィールドのフロストしかり、彼らが犯人を追いかけたり階段を駆け上がったりする途中に息切れして立ち止まるシーンが書かれない小説があろうか、いや無い。わたしはこれを勝手に「荒ぶる中年問題」と呼んでいる。

 

 本作の主人公バック・シャッツは30年以上前に殺人課刑事を引退した御年87歳のユダヤ系アメリカ人のおじいちゃんである。第二次大戦中に捕虜収容施設の看守として自分を散々痛めつけたドイツ人が名を変えアメリカに移住し金塊を蓄えている、という情報を今際の際の知人から聞かされ、最初は嫌々ながらも周りに流れ&復讐を兼ねて金塊をいただきに行くうち、あれよあれよと周囲で殺人事件が頻発し…。病院内で煙草は吸うは、気に食わなければ相手が牧師であろうが喧嘩は売るは、現役時代10数人の容疑者を撃ち殺してきた完全なる武闘派無頼老人の珍道中である。

 ただ短気なだけではなく性格的にもえげつなく容赦ないクソジジイであることは、上記引用の「わたし」と孫の「テキーラ」との会話からも読み取れるだろう。現実にいたら絶対に関わりたくない人種であることは間違いないが、ことフィクションに限れば大いに結構、みんなの大好物である。一応謎解き的な要素もあるもののあまり比重は高くない。前回の投稿ではないが、まさに「犯罪小説」である。

 

 本作は主人公シャッツ・バックの一人称語りを基本とし、合間合間に「忘れたくないこと」と第された断章が何度か挟まれる形態をとっている。バック老は事あるごとに自らの老いを表明する。例えば傷の治りが遅いとか、物忘れが激しく軽度のアルツハイマー病のきらいがあるとか、年中葬式だらけであるとか。また孫や知人からインターネットやGPSといったもはや現代では当たり前になった技術の話をされて何のことかわからなかいことが度々あり時代遅れ感をアピールする。上記の「忘れたくないこと」も、ボケ防止策として医者に勧められて書き始めたことが作中半ばに明らかになる。

 こういった、謂わば老化のテンプレートと、バックのキレッキレなタフガイっぷりのギャップが本作の見所となっており、それは十分に楽しめるエンターテイメントになっていると思う反面、正直なことを書くとわたしはあまりバックが老人らしいと思えなかった。何に引っかかっているのかというと、一人称語りというスタイルそれ自体に対してじゃないかと。つまり、全50章凡そ380頁かけて「俺は老いた。もうすぐ死ぬ」と語る、その語り口の饒舌さに老いを感じられないのだと思う。だからといって三人称だったら良かったのかと反問すると、それはそれで毒老人の破壊力が半減していただろう。うーむ。後書きによると翻訳が出た2014年7月の時点ですでに続編が発表されており、映画化も進行中とのこと(未確認)。たしかに映画のほうが映える気がする。

 結論:小難しいこと考えずスカッと読めば良い。

 

 

『もう年はとれない』

ダニエル・フリードマン 野口百合子訳

創元推理文庫 2014