瞑想と祈りにみる”変容”と”否定” | スピエネットのブログ

スピエネットのブログ

スピエネット(スピリチュアリティ&エネルギーケアネットワークの通称)は、「スピリチュアリティ」と「エネルギーケア」をテーマに探求。これらを安全にしっかりと学べる場を創ろうという理念で活動中。NPO法人日本ホリスティック医学協会関東フォーラム委員会所属。

スピエネット連続フォーラム 2017-2018
『瞑想と祈り』シリーズ
第2回 瞑想と祈りにみる”変容”と”否定”

<2017年12月2日開催>

 通常でも歯ごたえのある内容の多いスピエネット講座ですが、今回の「瞑想と祈り」シリーズは、第1回からとてもディープで堪能できる内容だったのですが、この第2回もとても濃厚でした。
 

 第2回のテーマは、瞑想と祈りに伴って生じるものである「変容」と「否定」についてじっくり取り上げました。




 

霊性と身心変容技法と言霊
鎌田東二 上智大学グリーフケア研究所特任教授・京都大学名誉教授


 瞑想や祈りでは、「自己変容」という状況に遭遇することが少なくないのですが、講師はまさにうってつけの鎌田東二先生が京都からこのためにお出で下さいました。
 

 実は、鎌田先生には国学院大学にいらっしゃった頃には頻繁にシンポジウムなどでお話しいただいていたのですが、勤務地が関西に移られてからはお呼びできにくくなっていましたので、私自身久しぶりに鎌田先生のお話をおうかがいできることを大変楽しみにしておりました。
 

 先生の講演のテーマに魅力的なキーワードが「霊性」、「変容」、「言霊」と3つも列挙されていることからして、期待感が高まっていました。

霊性
 

 鎌田先生は、体と心と魂の三層関係を「体は嘘をつかない。が、心は嘘をつく。しかし、魂は嘘をつけない」ととらえています。これは納得ですね。
 

 そして、“スピリチュアリティ”を「嘘のつけない、またごまかしのきかない、心の深みや魂の領域とはたらき」と考え、“スピリチュアルケア”とは「嘘をつけない自分や他者と向き合い、対話的な関係を結び開いていく試みとその過程」と考えています。
 

 体と魂が嘘をつかないかつけないのであれば、問題の核心は「ウソをつく心」ということになりますが、そうと分かっていてもそうやすやすとその心の状態を変えることなどできない現実に、「心身変容」と「言霊」という観点から切り込んでいただきました。
 

 まず、鎌田先生は、毎朝、比叡山を見ながら行われている法螺貝と石笛を実演して下さったのですが、これがまた素晴らしく良い響きでして、毎朝実践されていることは疑いようもありませんでした。

言霊、そして 心身変容技法
 

 「言霊」についての基盤として、「〇霊」というものには、①音霊、②数霊、③文字霊、④言霊、という種類があるそうで、歴史的には、スサノオや大国主命や万葉集の頃から言霊に関する記述が遺されているそうです。
 

 いよいよ「真言」を唱えた空海の時代になり、空海は「真言」と「三密加持」による「心身変容技法」をもたらしたわけですが、三密とは、身密・口密・意密であり、空海の真言観の登場をもってわが国古代の宗教的言語意識は頂点に達したとのことです。
 

 その後、中世・鎌倉仏教の時代になると、民衆の救済を具体的、実存的に突きつめていく方向性になり、一遍のように「念仏」を唱えるだけで良いという、三密のうちの1つを徹底して実践する、いわゆる「三密の一密化」の方向に変遷したそうです。
 

 さらに時代が下ると、真言宗の中興の祖といわれる「覚鑁(かくばん)」という僧が、あの宮本武蔵が重視した「五輪思想」を唱え、そこから五臓観に基づく「内臓瞑想」「五臓観想」という技法を提唱するようになったそうです。
 

 この「五臓瞑想」という技法になりますと、具体的に体の内臓を活用した“簡易な技法”となっているため、この「末法」という不安感が強く覆っていた時代性に適合していた、と鎌田先生は強調されていました。
 

 この「覚鑁」という僧は、大変な秀才であったそうで、空海の生まれ変わり的な注目を浴びていたそうですが、結局は高野山を追われ、根来寺を開き、後世では真言宗新義派の総本山となったそうです。
 
 空海による「真言」および、真言宗の中興の祖であった「覚鑁」がとても印象に残ったレクチャーでした。





自己否定~瞑想と祈りに通底するもの
本山一博 玉光神社宮司


 瞑想と祈りについて「否定」という視点から本山先生にお話をいただきました。お父様の本山博氏は先代の宮司ですが、世間的には宗教心理学研究所所長で、AMIという測定器の開発者として高名な方で、当協会でも何度もご講演いただいた方です。
 

 本山氏は、もとは数理学の研究者でいらっしゃったそうですが、先代から後継指名されたために宮司に変身されたそうです。今や「宮司」については、時事ネタになってしまいましたね。

瞑想による自己否定
 

 この「否定」「自己否定」といいますと、自己嫌悪や自分に対して否定的な感情を抱くことと混同するかもしれず、一見ネガティブなイメージになりますが、ここでは「瞑想における自己否定」ということであり、別物なのです。
 

 それは「利己的な心からの自由」と言ってもいいそうで、利己的な心からの自由というと、利他的な心になることだと思えますが、利他的であることがそのまま自己否定であるのではなく、「利他的になることによって自己否定が起きやすくなる」ということだそうです。
 

 さらに、ここがとても響いたのですが、自己否定とは「必然性、法則性からの自由」とも言えるそうで、「瞑想における自己否定」とは、主にこのとを指すといってよく、瞑想することによって、自分の身体や心に働く必然性から「意識が自由になる」ということなのです。
 

 ホリスティック医学では、人間を「体-心-霊性・魂」かならなる有機的統合体と見なす身体観が基本ですが、本山先生は、人間を「意識-心―体」からなる、というモデルを提唱されました。
 

 そうです、あの気になる「意識」という言葉が取り上げられました。本山先生は「瞑想とは自分の心身の意識化である」とか、「瞑想とは自分の心身の中で日ごろはあまり意識していないものを明確に意識することである」などと定義されているそうで、頷かれている方も多かったようでした。
 

 そして、瞑想を重ねていくと、「意識の純化」が起こり、これが「瞑想における自己否定の一つの到達点」であり、「一種の悟りのような状態」とのことです。そして、ここからさらに一歩踏み込んだ自己否定があり、それは「“大いなるもの”との関わりの中で起こる自己否定」なのだそうです。

祈りによる自己否定
 

 祈りとは、多くの場合、自分の願いごとを「大いなるもの」に適えてほしいという祈願を指していますが、どんな願いでも叶うというわけにはいかないとのことです。
 

 「大いなるもの」からの祈りの応答が強まるための条件があり、一つは「本気で祈っていること」、もう一つは「“大いなるもの”の意思に近いことを願っていること」という、近年のいわゆるスピ系と呼ばれる「自己中の祈り」とは異なることを明快に説明して下さいました。
 

 そして、一つの重要な鍵として「倫理性」を挙げられ、倫理的な心を持つと、瞑想においても祈りにおいても自己否定の準備になるが、「倫理的な心」と、心を超えた倫理の源泉である「大いなるもの」は次元が異なるとのことです。
 

 つまり、自己否定により、大いなるものを自分の内に受け入れるとき、人は倫理的になるだけではなく、「創造的」になるのだそうで、
「自己否定とは、「大いなるもの」とともに新しい自分と社会を創りだすこと」
という素晴らしい解釈を示して下さいました。





 その後、ディスカッションに入りましたが、この日の進行役はとても気持ち良く、楽でした。何故なら、お二人とも、飾ることもなく、隠すこともない姿勢でいらっしゃったからです。
 

 本山先生自ら、ご自分のお聴きになりたいことを鎌田先生にお尋ねになるなど、本当に率直で有意義な時間が流れていきました。現代に生きる瞑想と祈りの達人のお二人でした。
感謝です!

 

文: 降矢英成

 

 

 

次のスピエネットは!

エネルギー医学フォーラム

2018年7月7日~8日 @エムワイ会議室@高田馬場 ルームFG

 

7日:Day1 エネルギー医学の最前線~その科学とデバイスによる臨床

8日:Day2 映画『リーディング』~エドガー・ケイシーが遺した、人類の道筋~

 

お申込み受付中!

 

詳細、お申込みはこちらから!

http://www.holistic-medicine.or.jp/seminar/s_office/entry6644.php