瞑想と祈りとは何か | スピエネットのブログ

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スピエネット(スピリチュアリティ&エネルギーケアネットワークの通称)は、「スピリチュアリティ」と「エネルギーケア」をテーマに探求。これらを安全にしっかりと学べる場を創ろうという理念で活動中。NPO法人日本ホリスティック医学協会関東フォーラム委員会所属。

スピエネット連続フォーラム 2017-2018
『瞑想と祈り』シリーズ
第1回 「瞑想」と「祈り」とは何か
<2017年10月7日開催>

 

スピリチュアリティとエネルギーケアを深めるスピエネットの新シリーズは、満を持して「瞑想」と「祈り」をテーマにした連続講座です。毎回、この領域の研究者、実践家が登壇して様々な角度から「瞑想」と「祈り」について、ホリスティックな視点からじっくりと深めていきます。テーマに相応しい素晴らしい講師陣が揃った必聴の内容となっています。

スタートの今回は、「インド精神史における瞑想の諸形態」と「日本的『神秘哲学』に祈りの構造を見る」という内容です。


シリーズを通してのテーマである「瞑想」と「祈り」というものを、「瞑想=形態(諸形態)」と「祈り=構造」という角度から考察していきます。


インド精神史における瞑想の諸形態 
合田秀行 日本大学文理学部教授・仏教学/比較思想

 



インドにおける瞑想を取り入れた修道論の体型を中心として、瞑想の歴史と諸形態を概説。特に仏教の瑜伽行派(唯識学派)の修道論における「瞑想に取り組む以前の準備的な行」と「瞑想の究極的な境位」について言及し、さらに瞑想が持つ普遍性を考察するために、他の諸伝統でみられる瞑想との比較思想論的な考察を試みる…という、広範囲な領域をわかりやすくまとめられた内容でした。

瞑想/ヨーガ
 

まず最初に、インドのヨーガを中心にスタートです。

インドには哲学と宗教に分類がなく、呼吸を通して本質とつながるための瞑想法としてヨーガが行われていますが、インドにおける瞑想の起源は古く、アーリア人のインド侵入以前に開花していたインダス文明にまで遡り、インダス文明の滅亡後に途絶えることなくヒンドゥー教に引き継がれて今日に至っているようです。

ヨーガはもともと「ユジュ」といって「馬と乗り物をつなぐ軛をかける」が原意で、「結びつける」という意味から名詞化しました。漢訳では「瑜伽」「相応」というそうです。「ヴェーダ」時代には、ヨーガは「聖なるもの」を人体という場に顕現させる修行法を意味し、それを準備させる技法として用いられました。(M.エリアーデ説)また、マハーバーラタの一部「バガヴァッド・ギーター」では「ジュニャーナ(知恵)ヨーガ」「カルマ(行為)ヨーガ」そして一番重要とされている「バクティ(信愛)ヨーガ」という3つの道が説かれています。

「ウパニシャッド」の二大文章(梵我一如)「われはブラフマンなり」と「汝はそれなり」は、梵(ブラフマン:宇宙の根本原理)と我(アートマン:自己の原理)が同一であることを直観することにより永遠の至福に到達しようとする思想で、古代インドにおける「ヴェーダ」の究極的な解脱とされています。「梵我一如」の解脱と業(karma)にもとづく輪廻という思想が、その後のインド思想の展開においてゆるぎない根幹として展開し、以降、様々な修行法が出てきます。

古典ヨーガ学派(アシュターンガ・ヨーガ)は基本的に坐法(BC2~3世紀)。「ヨーガとは心の作用の統御(nirodha)である」という、自己を統御することにより本質の状態に戻るその状態を観察するだけということです。アシュターンガ・ヨーガの8つの段階の最終は、三昧(サマーディ)と呼ばれ「心が対象そのもの」になり、対象そのものが行者に入ってくる境地を意味するそうです。

一方のハタ・ヨーガは、13世紀ごろ「ハターヨーガ・プラディーピカー」という全4章からなるもので構成されています。坐法に留まらず84種類もの対位法(アーサナー)の解脱、身体の浄化法と調気法の解脱そなどもあります。重要なのは、クンダリーニの覚醒につなげるために会陰部から頭頂まで脊椎を貫くスシュムナー菅とその脇のイダーとピンガラーの二重螺旋の菅の汚れの浄化です。行法の目的は、クンダリーニという生命エネルギーに刺激を与え目覚めさせることでクンダリーニが上昇し6つのチャクラを覚醒させ、最後に登頂にあるサハスーラに達するとヨーガ行者は光に包まれて解脱に達するようです。

ハタ・ヨーガの特徴は、身体の浄化法が究極まで深められたこと、対位法と調気法の種類の増加、ムドラーという高度な修行法、さらに心身の修練から結果として生ずる様々な超能力の獲得があげられるそうです。

古典ヨーガとの相違点は、古典ヨーガが心身の沈静化を目指したのに対し、ハタ・ヨーガはその活性化を最大の目標においています。また、古典ヨーガは、超能力を解脱にとっては邪魔なものと考えたのに対し、ハタ・ヨーガはその獲得を重要な目標とみなしていたようです。しかし、このような相違点があってもこの両者は相互補完的な関係であったともいえるようですね。

仏教の瞑想


仏教の瞑想は、ブッダの悟りがベースになっています。その瞑想表現は、「念」「定」「禅定」「修行・修習」で、三学、五根・五力、八正道、六波羅蜜、三慧などのなかにも含まれています。

「止」と「観」という瞑想があり、「止」とは心を特定の対象に結びつけて集中力を養う瞑想で、「観」とはナーマ(心の作用)とルーバ(物質)を観察することで真理とされる無常・苦・無我などを洞察する瞑想で、この二つは両輪のごとく不可分な関係となっているようです。

以降は、初期瑜伽行派から密教(仏教タントリズム)、後期密教(性的ヨーガ)の概略の説明。瞑想における危険性のところでは、弟子がどのような師を選ぶかも重要な過程とされるようで、これも修行だということです。(選ばれる師の方も修行なのでしょうか 笑)

最後に、瞑想の諸相がまとまられていました。
・心身のバランスをとる→心身の統御
・特殊な身体技法→変性意識状態→癒し、悟り、解脱
・唯識、禅→非二元的な境地(悟り、唯識観、空)
・根源的なもの、神との同一、合一→神秘主義的直観→究極的な解脱

そして資料の最後に、講演者の師である玉城康四朗さんの口癖「毎日の食事を忘れることがないように、日々の禅食を忘れないように。日々の瞑想を怠らないように」「文献の研究と瞑想は両輪のごときものである」というのが印象的でした。


日本的『神秘哲学』に祈りの構造を見る 
久保隆司 山梨学院大学国際リベラルアーツ学部兼任講師・神道学/心理学




古代より、神道での祈りといえば「大祓詩」です。江戸初期、神道を始め数多くの教えを統合した山崎闇斎も最重要視し、日本を代表する「神秘哲学」体系を構築しました。現代に至る日本人の思考行動様式や社会構造の根底を形成しています。今回は、祈り(祈祷)を根幹とした「統合人」闇斎神学の一端も紹介するという、かなり聞き応えのある内容となっていました。

祈りと瞑想

まず始めに、人智学の立場から「祈りと瞑想」の違いを解説です。

祈りは、1つの「汝」へ直線的に向かうことで、最初から考察したり沈潜したりする性格を持っていないとのことです。また、本質的に社会的であるとのことです。

瞑想は、魂による首尾一貫した努力が必要で、準備と霊学的な方向づけを徹底して知ることなしに始めてはいけないとのことです。また、自分の内面に集中して、そこに神的な働きを見出そうとする行為であるようです。

この両者の構造は非常に対照的で、「瞑想」は考察的な要素を持っていますが、「祈り」はそういったものを超えてより純粋性が問われるのではないかと感じました。

一方で日本の祈りは、927年に完成した全50巻の延喜式にある「延喜式祝詞」が日本最古のもので、そのなかに「大祓」というものがあります。大祓は、最も有名な祝詞・大祓詩によってなされる神道儀礼で、溜まったケガレを祓い清めるのが目的とのことです。

山崎闇斎

闇斎は、「神書」主に「大祓詞」と「日本書紀」神代巻を通して神に祈ったそうです。闇斎の思想と神学は、朱子学と神道との兼学によって構成され、その思想の核心は「神垂祈祷・冥加正直」という言葉で象徴され、闇斎は「我願守之終身勿惑」とまで述べているそうです。(漢字が読めないですね…笑)
「天人唯一」ミクロコスモスとマクロコスモスの一体を背景としたこの言葉に、祈り「祈祷」と「正直」による「神秘哲学としての闇斎思想」の基本的構造が示されているそうです。

また神秘哲学の定義とは、まず「神秘主義(的体験)」次に「哲学(的省察)」という二つのプロセスから構成され、古今東西の思想・宗教、例えば...古代ギリシャ哲学、キリスト教、イスラーム教、仏教の秘教的部分などに通底する普遍性をもつ真理の探究、または「東洋哲学の共時的構造化」の具現化の試みであるということです。

江戸時代初期に生まれた山崎闇斎は、京都・妙心寺で臨済宗を10代から学び、20代からは朱子学、40代には大家となり人生の後半には神道を要にそれら全部を統合する「知恵」と「信仰」の地平まで到達し稀有な日本人といえるようです。

「祈祷」と「正直」

「神秘哲学」の種や萌芽の多くは伊勢神道によって闇斎にもたらされたと考えられ、垂加神道が最も重視した「祈祷」と「正直」の二つの行為に関わる概念を、伊勢神道の流れの中でみていくと、闇斎の神道思想上の大きな功績は中世の神道思想を整理、統合し近世神道たる垂加神道を構築した点にあるようです。垂加神道成立の歴史的背景を踏まえると、闇斎思想の神秘哲学としての基本構造は、その根底となる伊勢神道自体が内包していたと考えられるようです。

原因とされる人間側の行為としては「祈祷」と「正直」に求められ、結果とされる神側の行為は「神垂」と「冥加」となるようです。「祈祷」については、垂加神道家によると個人的な私欲からの願い事を意味せず神道全体にわたる根本の工夫である...と「祈祷」を最重要視しています。

「正直」については、古代の「清明心」から移行し中世では「正直」が中世を代表する人間一般の徳目とされ、特に伊勢神道で重視されたようです。神道の文脈における「正直」とは、ただ単純に自然の状態やあるべき姿を意味するのではなく、その「行動」に重要な意義があるようです。

また「祈祷」と「正直」という行為の成立には「清浄」という場の形成と「心神」という主体的存在が前提となります。場としての「清浄」は「祓」の行為で、場、身心を清浄に整える。(内清浄、外清浄)
主体としての「心神」とは、五部書にある言葉で根元神で天御中主尊の分霊であり、万人に付与されているとされているようです。

闇斎の「統合的神道」における「祈り」の基本構造は、以下の2系統に導き出されます。
1「神垂以祈祷為先」→行為(受身的行動)の「祓」→前提となる心身「清浄」→行為(主体的行動/人の行為)「祈祷」→結果(神の行為)神垂(神との一体、神への意志的接触)

2「冥加以正直為本」→行為(受身的行動)の「祓」→前提となる心身「清浄」→行為(主体的行動/人の行為)「正直」→結果(神の行為)冥加(神との一体、慈悲の受容)

2系統の違いは、神とつながる、いわゆる「神人合一」の実現のための「行為」の2系統と考えられ、「祈祷」は能動的(意志的)行為で心神の上昇。「正直」は受容的行為、心神の下降と考えられ、この2つが一貫、統合、反復されることが重要ということのようです。

最後に、闇斎思想の構造のまとめとして、後期伊勢神道との比較をされています。

A.後期伊勢神道(度会延佳)の解釈:神道信仰のための2つの道
1「祈祷」:能動的・心神の上昇:神社祭祀:専門化(神職による祭祀)
2「正直」:受容的・心神の下降:旦暮の道:一般向けの日常論理化

B.垂加神道(山崎闇斎)の解釈:「天人唯一」体現のための1つの統合プロセス
1「祈祷」:能動的・心神の上昇:「神人合一」という神秘体験
2「正直」:受容的・心神の下降:天御蔭日御蔭(慈悲)

延佳の思想は、神秘哲学の立場ではなく道が分離している。1と2のプロセスがそれぞれ専門職の神職と一般庶民とに二分されていて、一般人の修行などによる霊的成長(聖人の道的な神人合一)を重視していないので、神道は日本的な本覚思想に近くなるとのことです。

一方、闇斎の思想においては、1と2(さらには神儒兼学の観点など重層的)で、一貫した神秘哲学のプロセスを構成、志向しているようです。

天人唯一は、万人に平等に開かれている「神垂冥加之人」実現への道だということです。

闇斎の思想をベースに日本の神道における「祈り」の構造を考察できた、他では聞けない貴重な内容でした。



文: 寺岡丈織

 

 

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