突然の訃報に驚きました。
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ。
アルゼンチンが初優勝を遂げた1978年の自国開催のW杯は18歳ながら最終候補まで残っていたが、経験不足を理由に選考から漏れてしまう。
1979年、日本で開催されたワールドユース大会でキャプテンとして出場し、アルゼンチンを優勝に導き、一躍スターダムに。当時マイナースポーツだったサッカーだが、サッカー雑誌はマラドーナ一色になってました。
1982年スペインW杯、背番号10を背負い、連覇の期待がかかったが、2次リーグ初戦イタリアのジェンチーレの執拗なマークに苦しみ惨敗。後がないブラジル戦、味方へのファールにキレ、相手を蹴る報復行為で退場に。惨敗で連覇の期待も虚しく敗退。
1986年メキシコW杯、キャプテンとしてチームの中心選手として望むも、膝の負傷で状態としては芳しくなかった。しかし、1次リーグを順調に突破し、準々決勝イングランド戦、神の手ゴールと圧巻の5人抜きゴールで伝説となる。準決勝、ベルギーを自身の2ゴールで退け、決勝、ブルチャガへの絶妙のスルーパスで決勝点を奪って引き離し、追い縋る西ドイツを振り切って優勝。大会MVPも獲得し、マラドーナの大会と称される。
1990年イタリアW杯、連覇の期待がかかったが、コンディションは芳しくなく、決勝まで辿り着くのがやっとで、コンディション万全の西ドイツに4年前の雪辱を喫してしまう。しかし、決勝トーナメント1回戦、ブラジルの猛攻を受け、2度のゴールポストを叩くシュートに見舞われるもGKゴイコチェアの好守もあって持ち堪え、終了間際、ボールを受けたマラドーナにブラジル守備陣4人が引き寄せられ、絶妙のタイミングで快速FWカニーヒアにパス、GKをかわして決勝点を決めた。準々決勝ユーゴスラビア、準決勝イタリアとPK戦を制して決勝まで来たが、西ドイツまでかわすことはできなかった。人目を憚らず泣くマラドーナの姿が今でも印象に残ってます。
1994年アメリカW杯、予選をマラドーナを外して挑むも予選敗退の危機にマラドーナが復帰、何とか予選をプレーオフで制し4度目のW杯出場となる。しかし、初戦のギリシャ戦でゴールを決め、ナイジェリア戦でもまずまずのプレーを見せていたが、ドーピング検査で禁止薬物が検出され大会から追放されてしまい、最後のW杯は後味の悪いものになってしまう。
南米はブラジル派、ジーコがアイドルだったワタクシ、常にサッカー以外でお騒がせ、思い通りにならないとラフプレーに走り駄々っ子みたいなマラドーナが大嫌いでした。
しかし、足にボールが吸い付くようなドリブル、絶妙のボールコントロール、激しいチェックを受けても倒れないフィジカルとボディバランス、そしてワタクシが凄いと思ったのが周りを活かす戦術眼。
1986年決勝のブルチャガへのパス、1990年カニーヒアへのパスなど、もうやられたとしか言いようがない完璧なタイミングでパスが出されてます。
大嫌いながらも認めざるを得ない部分は少なくなかったです。
足に合わなくてもadidas派だったワタクシが唯一履いたPUMAのスパイクがマラドーナモデル。
ボカの象徴ゴールドのラインに足の指の曲がる部分が蛇腹のように曲がるカンガルー革のスパイク。
負傷して腹筋と背筋を延々と繰り返していたら砂のグランドで踵が擦れて穴が空いてしまいましたがww
良くも悪くもサッカー界を騒がせたスーパースターの訃報に大嫌いとはいえ何とも言えない気持ちになりました。
ボカに所属していた時に来日し、日本代表と神戸で試合をしたのを見に行きました。
当時の日本代表なんて相手になるわけがない、マラドーナがボールを持つたびにワクワクしましたね。
嫌いなはずなのに気になる存在、表現しにくいですが、そんな特別な感情で彼のことを捉えてました。
もう、彼みたいな選手は現れることはないでしょう。
メッシや栗スチアーノなんて彼の足元にも及ばない。
栗スチアーノなんてほんまに嫌いですから、アイツが何をしようが一切気にもならない、無視。
過去に一度だけ、10番を背負ったことがあるのですが、重過ぎて嫌でした。
11を貰ってから気が楽になった。
それは、ああはなれないからって諦めのような気持ちだったのかも知れない。
R.I.P Diego
Adios.
♪sam-1152♪