- 江原 啓之
- 江原啓之神紀行6 北海道・東北・北陸
アカシック・レコード
現世に生まれてくるということは、現世二大法則である
・波長の法則
・カルマの法則
を理解し、”運命の法則”を学ぶためであると言えます。
そのなかでも、”カルマの法則”に対する理解を深めることは、霊的真理の理解を深めるという点において、現実味のあるテーマであると考えられます。
なぜなら、カルマの法則を理解するということは、自分自身にすべての責任があり、責任主体で生きなければならないことの学びそのものだからです。
人は皆、神我を備えているという点において、神の一部であると言えます。
しかし、それは粗い粒子であり、磨き残した様々な面を持つ、ダイヤモンドのようなものです。
私たちは生まれてくるときに、みずから今生の学びのテーマを定めて生まれてきます。
生まれてくる前は類魂の一部としての存在ですから、自分の学びは類魂全体が学ぶべきテーマであると考えられます。
学びのテーマを定めるためには、その素となる情報の存在が必要です。
それが、”アカシック・レコード”と呼ばれるものです。
人の”思い・言葉・行為”のすべては、寸分違わずアカシック・レコードに記録されます。
また、グループソウルの法則に従えば、自分に関するアカシック・レコードは、”類魂のなかに存在している”と考えることができます。
類魂で学ぶべきテーマとは、自分のたましいからみれば、”宿命”的なカリキュラムであると考えられます。
いわば、”宿命のカルマ”ということになります。
それに対して、現世でみずからの思い・言葉・行為によって生み出すカルマは、”運命のカルマ”であり、責任主体であるということに気づきながら、大我に目覚めてゆくための学びであるといえます。
このように、たましいの学びのテーマは、”宿命”と”運命”としてとらえることができます。
カルマの法則とアカシック・レコードが密接に関係していることから、カルマにも”宿命のカルマ”と、”運命のカルマ”という性質があることがわかります。
愛の利己主義
霊的真理の視点では、さまざまな苦難を乗り越えながら、小我を大我に変えていく経験自体が、真の幸せであると考えます。
現世での苦難は、小我でしか引き寄せられず、決してそれ以外の要因などなく、ましてや理不尽さがあるものではありません。
ですから、どのような苦難でも、みずからの責任によるところであり、必然でもあります。
これが”責任主体”ということであり、さまざまな苦難のなかで、”現世二大法則”の働きに関しての、理解を深めるための学びです。
小我に引き寄せられる苦難は、大我を理解していく上での貴重なトレーニングと言えます。
そもそも現世では、他者との交わり無くして生きることは困難です。
しかし、他の人と交わることで、さまざまな試練を得ます。
単に嫌な思いをするということではなく、目の当たりにする状況から自らの小我の写し出しを見出すチャンスを与えられているのだと考ることができます。
相手に見せつけられる小我は、みずからの小我の写し出しであると考えられます。
ですから、それらを直視するときは、大きな苦しみを感じます。
他ならぬ自分のことですから、余計に苦しさや腹立たしさを感じてしまいます。
小我を乗り越えようとするとき、こうした事実に気づきながら、たましいの視点を深めてゆきます。
やがて腹を立てることも少なくなり、みずからを顧みつつ反省と思いやりの感情を持つようになります。
小我が大我に変わってゆく瞬間とは、こういったところに現れているのです。
苦難の中で感謝を感じる心を養い、相手を慈しむことができるようになることで、相手のなかに自分を見いだすことができるようになります。
小我に苛まれることで乏しかった想像力も、大我の感性を得ることで、より豊かなものへと成長してゆきます。
さまざまな試練の中で、人との交わりのなかに”波長の法則”を見い出し、みずからの思い・行動の及ぼすできごとから、”カルマの法則”を実感していきます。
依存心と傲慢さを脱ぎ捨てるための、プロセスそのものです。
すべてのたましいは、ひたすらみずからの成長(大我の愛を理解する)ことだけを望んでいます。
そうすることで、他者との隔たりを捨て、すべてのたましいがつながりあっているということを思い出してゆきます。
たましいの存在理由は愛の学びを深めることのみであり、きわめて純粋かつ利己主義的な存在であると言えます。
これは、すべてのたましいが宿す性質であり、等しく”神我”を備えているということの証明でもあります。
現世二大法則を通じて私たちが学ぶべきことは、皆がたましいの存在であり、繋がりあったひとつの存在であるということの理解を、ひたすら深めていくということではないでしょうか。
セルフ・カウンセリング
ここしばらく、体調の悪い日が続きました。
しばらく調子が良かったのですが、少し油断したのかリズムを崩してしまいました。
季節の変わり目には、決まって調子を崩してしまいます。
人間の体というのは、本当に不思議なほど精密です。
表面上はストレスを感じていないようでも、内面的に消化できていないことがあると、変調をきたすなどをして現れてきます。
恥ずかしいことですが、しばらく前に後頭部に大きな円形脱毛症ができたことがありました。
とあることがキッカケで、不信感と怒りに苛まれた時期です。
まさかそんなことになろうとは・・・、と驚いたものですが、体とは本当に正直なものだと実感しました。
生きている人間は、肉体にたましいが宿った存在です。
肉体が車なら、たましいは運転手だと学びました。
この例えは、色々な角度から合点のいく説明ができる、すばらしいものです。
■車の特性と限界を知することで、故障を避けることができるだけでなく、快適な走行が可能です。
■適度な休みを取ることで、無駄を少なくし、ロングライフ走行ができます。
■交通ルールを守ることで、他の車や人間との事故を起ことなく、安全に走り続けられます。
このように考えると、みずからを知るということの大切さがよくわかります。
自分という存在を理解することで、これまでの試練に潜む傾向や、課題への対処法を見いだしやすくなります。
多くの場合、自分が抱える思いグセがなんであるかを見つめることが、内観のポイントであると考えています。
肉体を車に例えましたが、たましいの宿る乗り物であると考えれば、故障である病の多くは、運転手の”思い・行動”による問題のはずです。
小我の側面である思いグセが、運転のミスやルール違反を起こす原因になっているのです。
そう考えると、思いグセと肉体の病は、密接に連動している関係だと言えます。
私の場合、自分のなかで信じる正義を、人の行動にも求めすぎてしまう傾向がありました。
良いときは絶対的な信頼を寄せてしまいますが、相手の小我を目の当たりにしたときは、やりきれない気持ちに苛まれていました。
等身大の相手を、見つめようとしなかった結果です。
人を信じられなくなる気持ちと、みずからの招いた失敗による挫折感から、許せない気持ちに囚われてしまいました。
あまりにイライラしていると、しばらくして、後頭部の毛が大きくなくなりました。
体の反応に、本当に驚きました。治療は長引き、副作用も大きいのものでした。
時間が経ったことで、いまでは気にもならないことですが、思い返せば精神的に押さえ込んだだけでは問題解決にはならないということの証明だと思いました。
それに対して以前患った大病は、宿命の病であったと確信しています。
人生の転機となる、大切な人たちとの出逢いのきっかけだったからです。
頑固すぎる思いグセへの、警告も含んでいたと思います。
病気には、カルマの法則も密接に関係していると考えます。
思い(思念)も行動と同じように、力を持つと学びました。
思いグセは、小我の行為そのものであり、カルマを生み続ける要素なのだと考えています。
ですから、内面の問題のようでも、現実の世界でさまざまな問題となり顕在化して返ってきます。
これが、内面的な小我と大我を見分けるポイントだと感じています。
病気は、たましいからのメッセージそのものです。
その属性を見分けることで、どのような問題を示しているかが浮き出してきます。
思いグセを理解するには、体調と向き合うことが、最良のヒントだと思っています。
内観したいときには、こういった観点も持ち合わせてみるのが良いのではないでしょうか。
