・:*:江原スピリチュアリズムの実践日記:*:・ -3ページ目

人助けの本質

人を助けるということ


このこと一つをとっても、あらためて考えてみると、いかに定義が曖昧かということに気づきます。


そもそも、皆がよく言う ”人助け” とは、どういったことを指すのでしょうか?


困っている人を助ける、貧しい人に施しを与える、病人を癒す・・・など、

色々なイメージが持てると思います。


しかし、”なぜ助けたいか?”といったところから考える人は、あまりいないように思えます。
『助けること=善いこと』 という構図が、さもあたりまえのように考えられてしまうのは、なぜでしょうか?
”常識だから”、”価値観だから”といってしまえばそれまでのようですが、私はそういった意見に違和感を覚えます。


こうしたことを考るうちに、あることに気づきました。
”あたりまえ”が蔓延る世の中になってしまったのは、”インスタント”であることを求めすぎてしまった結果そのものではないかと。


物質主義的価値観の視点に立てば、効率的に答えを得られることは、歓迎すべきことになってしまいます。
しかし、安易に得られる答えばかり受け入れていると、疑問を抱くことを忘れてしまいます。
知らず知らずのうちに、”物質主義的価値観”に染まってしまうことにより、深く考えない状態に陥っているのだとしたら・・・
正しいものを見分ける視点など、到底得られるはずもありません。


人を助けたいと思うとき、かならず、そう思うことへの”動機”が存在するはずです。

私は、スピリチュアリズムを学び始めたときに、”動機”の大切さを学びました。


想い、考え、行為には、どんなときでも、かならず動機が伴うはずです。
動機は、最初に抱くものであるからこそ、意識的・無意識にかかわらず、心根が現れやすくて当然ではないかと思うのです。
そう考えると、まず大切なのは、”想い・行為”に至った、”動機”であることが、わかってきます。


あらためて、”人助け” ということについて考えてみます。
 
”人助け”ということも、動機が大切なはずです。
もしそこに目的が存在しているのなら、誰がため、何がためを見つめることで、動機の内容も見つめやすくなります。
相手の障害を取り除くこと、課題を肩代わりしてあげることだけが目的ならば、動機を深く見つめることで、そうしたい自分が何を求めているかが浮き出してくるかもしれません。


もしそれが”条件付き”の人助けならば、”小我”による物質的価値観が付きまとっています。
人を助けることが目的ではなく、”自分のため”という要素が強い、ということです。
感謝されること、称賛されることを意識した人助けならば、見返りを求める打算的な心根に対する、カルマが返ってくることになるのでしょう。


動機が純粋かどうかの本質的な秤は、”大我”によるものかどうかを内観することで、わかってくると思います。
本当の意味での人助けが、相手がたましいから輝けることであるならば、あえて苦難に身を置いた状態で見守るのも人助けということになります。


そもそも、相手の課題を代わってあげられるはずがないのだということを、理解しておく必要があるのではないでしょうか。
目にする状況が相手に代わってあげているのと等しくても、それは元来、みずからが越えるべき課題であったというだけの話しだと考えています。


動機は、”カルマの法則”により、寸分違わずみずからに返ってくる、純粋な写し出しのようなところがあるように思います。
愛の行為には愛が、打算には打算が、見返りを求める行為には同じく求められるといったように、均しい性質のカルマが、返ってくるのではないでしょうか。


人助けの行為に及ぶときこそ、みずからの心根を見つめるのに、良い機会だと考えています。
助言に留めて見守るべきか、手を差しのべるべきか、人助けのという行為を通じて、みずからも試されているのだということを、忘れないようにすべきでしょう。


物質主義的価値観による親切心には、傲慢さが宿ります。
自分自身へ向けられる感謝、優越心を意図するものなら、動機に根差す傲慢さだけでなく、相手の乗り越えるべき課題を我欲のために奪ってしまうという、罪ともいえるカルマを生み出してしまいます。
子供の宿題を親がこなしてばかりいると、子供には何も身に付かないのと、同じようなものではないでしょうか。

たましいの視点でなければ、なかなか切り替えられない状況が続いてしまいます。

それだけ、傲慢さを捨てるということは、大変なことなのです。


スピリチュアルブームという言葉が飛び交う昨今、人を助けるというふれこみで、多くの商売じみたものが登場してしまいました。
ヒーリングやカウンセリング、占いにいたるまで、どこもかしこも、スピリチュアルだらけです。
そうしたものに頼る人々も、魔法を期待する依存心によるところが大きいためか、目の前の課題からいっそう抜け出しにくくなりがちです。
そこにつけ込んで商売をしている側も、小我の動機による行為ですから、いかがわしさに満ちた紛いものにしかなり得ません。


真摯に悩み、課題に向き合うなかで本当に必要ならば、必要に応じた救いの手が、差し伸べられるのだと思うのです。
自分の実体験からも、そう感じています。


スピリチュアリズムを学ぶ今だからこそ、人を助けたいと思うみずからの気持ちに、真摯に向き合わなければと考えています。

動機が純粋かどうかは、その想いが、”愛”で満たされているかどうかだけなのです。

用語解説:【八つの法則】

スピリチュアリズムでは、霊的世界から現世へのアプローチによってもたらされた、さまざまな霊的現象に対して、科学的見地での検証が繰り返されました。


なかでも、ハイズビュー事件(※リンクあり) 以降の近代スピリチュアリズムでは、高級霊からの通信にもとづくメッセージである、”霊界通信”に着目し、そこから得られる霊的真理への学びを深めました。


そうした成果をもとに、近代スピリチュアリズムの中心であったイギリスでは、”スピリチュアリスト七大綱領”というものが採択されることとなります。


また、そうした霊的真理にもとづく人生観に生きる人々を、”スピリチュアリスト”と呼んでいます。

年月を経て、ここ日本の地で、スピリチュアリズムは新たな幕開けを迎えようとしています。


その先駆者である、江原啓之さんのスピリチュアリズム研究によって、今では多くの人々が霊的真理に接することとなりました。


江原啓之さんの手によって、”スピリチュアリズム七大綱領”、および”霊的真理”は、今の私たちにもわかりやすくまとめられ八つの法則として、私たちに届けられています。


八つの法則とは、


1.霊魂の法則  (スピリットの法則)

2.階層の法則  (ステージの法則)

3.波長の法則

4.守護の法則

5.類魂の法則  (グループ・ソウルの法則)

6.カルマの法則 (因果の法則)

7.運命の法則

8.幸福の法則


以上を指しています。


霊的真理は、その時代ごとに、時勢を反映した理解度にもとづいて、届けられています。


現代の霊的真理は、まさに、”八つの法則”そのもの と言えるでしょう。


そうした江原啓之さんのスピリチュアリズム研究は、既に”二十年”にも及んでいます

人生の苦難

生きていると、苦しいことや悲しいことが、たくさんあります。


どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか、なぜ自分だけが、という想いにさいなまれることも、多々あるでしょう。

私自身、幾度もそう思い続けてきました。
今すぐ逃げ出したい、消え去りたい、と思うことも、しばしばありました。
思い返すと、いつも底知れぬ不安に苛まれていました。


悩みや不安に囚われすぎると、喜びを見いだすゆとりが、失われてしまいます。

そうした気持ちの原因すら良く理解できていない状況ですから、無限ループのように悩みだけ抱いてしまいます。


まさに、”思いグセ”に囚われた状況です。


私の場合、そうした最中に、大きな病気を患いました。

突然、左足の激痛にみまわれ、歩くことすらままならなくなったのです。
海外に出張中のできごとでした。

以前から、鈍い痛みを感じていたのですが、忙しさにかまけてほったらかしにしていたものが、急激に悪化したのです。


帰国後、病院に行って画像診断をしたところ、驚きの宣告を受けます。
そこでは手の施しようがないと伝えられましたガーン
筋肉痛だと思っていたのですが、それどころではありません。
その日は痛みに耐えながらも、一日待ちを彷徨ったことを覚えていますしょぼん
二本の足で歩くという当たり前のことが、当たり前ではなくなったからです。


後日、紹介された病院に行くと、その場で即、緊急入院となりました。
その場で歩行厳禁となり、車イスでの生活が始まりました。

思わず、笑ってしまったことを覚えています。

間もなく、両親も遠方から駆けつけ、お医者さんと今後の話をしました。
重苦しい雰囲気のなか、手術で開けてみないとわからないが、楽観はできない、悪ければ延命しかできないということだけが、伝えられました。


一日三時間睡眠がやっとの生活を二年も続け、仕事もようやく結果の出る直前のできごとでした。

これまでも二度ほど手術で入院しましたが、かつてなく苦しい闘病生活となりました病院


その後、二度に渡る手術を経て、、現在に至ります。
一度目の手術で採取した病理診断の結果がでるまで、生きた心地がしなかったことを、今でも鮮明に覚えています。

その後、二年半近く、歩くことすらできなくなりました。
今では、一人暮らしで難儀したのことが、懐かしく感じられます。

残念ながら、移植は失敗しましたが、なんとか歩くことはできるようになりました。


しばらくした後、知人から勧められて、一冊の本に巡り会いました。


江原啓之さんの、

江原 啓之
人はなぜ生まれいかに生きるのか―新装版・自分のための「霊学」のすすめ

という書籍です。


これが、私とスピリチュアリズムとの出会いでした。


江原啓之さんの著書を何冊か読み進めていくうちに、すべてに”偶然はなく、必然である”こと、病気にも深い意味があるのだということを知りました。
そのことを知ってから、自分が病気を患った意味について、未だに考え続けています。


私の場合、こだわりが強く、悩みやすい性格であったため、その”思いグセ”による病なのだろうかと考えました。
もしくは、病気の経験を通して、江原啓之さんの存在を知ったことから、宿命の病といえる要素が、あったのかもしれません。


いずれにしても、人生の転機となったできごとには、違いありません。

思い返せば、周りのことも自分のことも顧みず、ただがむしゃらに働いた数年を過ごしていました。
人の期待に応えるために、誰もが納得できる成功を得ようと、ただひたすら寝る間も惜しんで働きました。
今では、恐ろしくて考えられない程です・・・。
未熟で経験も乏しかったですから、自分が忙しい最中は、周囲の人のことをあまり意識できずに、傷つけてしまうことも多かったように思います。


そのとき、年長者の人から、次のアドバイスをいただきました。
『忙しいときこそ、周りの人への気配りと接し方への配慮を忘れずに』
当時は頭ではわかっていたつもりでも、なかなか行動に反映できていなかったと思います。


私にとっては、このときの経験は、人生のなかでも大きなできごとでした。

今では、良き想い出であり、人生を考える貴重な転機になったと思っています。
本当に、色々と考えさせられました。


・体を酷使しすぎず、休むべき時は休むこと
・時には立ち止まって、自らを省みる時間をもつこと
・仕事も私生活も、人と人とのふれ合いとして、慈しみを忘れないこと
・追い求める目標の、本質を見極めること


この後、江原啓之さんの書籍と出逢ったことで、考え続けてきたことが、一つの線で繋がり、あらたな世界として広がったのです。

自分にとって、こうした経験にどういうメッセージが込められていたのか、今でも宿題として、考え続けています。
肉の病思いグセの病宿命の病、どれもに当てはまるできごとだったのかもしれません。


どんなに心が盲目的な状況に陥ろうとも、たましいは生まれてきた目的を忘れてはいません

学びの目的から大きくそれることがあれば、見失いそうになっている自分に、メッセージを送ってきます。


私の場合、”求められた道ではないこと”、”立ち止まって考える時間を持つよう”にというメッセージが、込められていたように思えます。
また、他者との考え方に対する隔たりに、頑固な態度をもってこだわりすぎてはいけないという、警告だったように感じています。

そして、精神的価値観の視点を取り戻すよう、スピリチュアリズムとの出逢いを促してくれた経験となりました。


後遺症も残ったので、多少は辛いできごとでしたが、私にとってはみずからのたましいと向き合うことを教えてくれた、貴重な経験だったと感じています。

大病を得るまで、自分がそのような病気にかかるとは、微塵も考えることはありませんでした。
死の淵にある人たちの、切迫した状況や、心根を理解するには、ほど遠い心のありようだったと思います。


そういった意味では”わかっているつもり”を、思い知ったできごとでもありました。


こうした経験を通してでないと、理解できない自分が情けなくも感じています。
日常を過ごせることへの感謝を忘れず、その日常にこそ、成長の糧があるのだということを、決して忘れてはならないと思っています。


私はこれからも、多くの厳しい経験を得るのだろうと感じています。
そうしたときに、これまでの人生を振り返りながら、その時々与えられたメッセージを噛みしめながら、たくさんの経験と感動を積んでいきたいと思っています。


私の手にはいつも、江原啓之さんの八つの法則と、スピリチュアリズムがあります。