孤独と刹那
”いのちの重みとはなんでしょう?”
そんなことを考えさせられる世の中になってしまいました。
人生は、たくさんの”経験と感動”を積みながら、生まれてきた意味を思い出す、旅のようなものです。
そうしたなかで、多くの苦難を乗り越え、分け隔てをもつ小我を捨ててゆきます。
人生とは、愛の学びそのものと言っても、過言ではありません。
そして、現世での学びとは、死するそのときまで精一杯生き抜くことそのものだと思っています。
ここ数日、またもや悲惨な事件の報道ばかりが続いています。
2007年4月16日、アメリカでは史上最悪の銃乱射による虐殺事件が起こりました。
時待たずして、翌日の日本では、公衆の面前で長崎市長が射殺されるという事件が発生してしまいました。
両国が、大きな悲しみに包まれた出来事です。
わずかな時間の間に、社会を震撼させる事件が連続して起こったことは、私たちにどのようなメッセージをもたらしているのでしょうか。
貧富の差からくる格差意識、みずからに対する卑下、妬みと怒り。
いずれも、孤独にさいなまれたがゆえの問題と言えるのではないでしょうか。
内向きに未成熟な心は、ますます内向的になり、満たされない想いを強めてしまいがちです。
誰もが寂しさを抱えつつも、お互いに心を開くことすらできない社会の縮図が、そこにはあったのかもしれません。
差別意識を捨てきれない社会が、孤独を助長し、愛に飢えた若者を生み出しました。
愛を見失ったたましいは、孤独に支配されてしまいます。
まさに、無関心を容認する社会への、大きな警告であったように思えてなりません。
もちろん、このような行為に及んだことは、決して許されることではありません。
しかし、なぜそのような状況に至ったかについては、皆で考える責任があるはずです。
江原啓之さんはその著書のなかで、”愛の電池”という表現をされています。
人は、たましいの存在です。
たましいは、たましいでのみ通い合えるものです。
決して、物で満たされる存在ではありません。
たましいは、たましいによってもたらされる愛でのみ、満たされる存在なのです。
まさに、”愛の電池”たる所以だと考えています。
そもそも人間は、愛なくして生きていけないと思うのです。
物質主義的価値観は、たましいの視点とは異なります。
物で満たそうとする行為は、愛で満たす行為に置き換えることはできません。
なぜなら、”愛”は物質主義的価値観では推し量れないものだからです。
無関心による孤独にさいなまれたたましいは、愛の温かさから遠ざかり、物質主義的価値観に冒されやすくなるでしょう。
すべての判断基準が物質主義的価値観にとらわれてしまうので、貧しさから抜けられない自分を卑下し、社会を妬んでしまったのでしょうか。
自分には生きている価値がないと思い始めると、他人の命もそのように見てしまいがちになります。
愛に満たされない想いが孤独を深め、刹那的な深みに嵌ってしまいます。
江原啓之さんの言う『真・善・美』 から、遠く離れてしまった状態なのかもしれません。
たましいに宿る”神我”の光がか細くなってしまったとき、善悪の区別すらわからなくなってしまったのでしょう。
事件の凄惨さの裏に潜む、満たされない想いの原因を見つめなければならないと考えています。
そこには、物質主義的価値観がもたらす、社会の闇と呼べる部分があるように思えてなりません。
苦しみを分かち合うことすらできない世の中に、なぜなってしまったのでしょうか?
分かち合いを意識できる世の中には、愛が通い合う機会がありました。
孤独を埋め合う、たましいの交流がありました。
人と人が、支え合う社会がありました。
そうしたなかに、意識せずとも、霊的真理を学ぶ機会があったのだと思うのです。
苦しみを分かち合うことで、愛や喜びを実感するとき、人は繋がり合っていることを感じているからこそ、喜びを感じているのです。
これこそが、江原啓之さんの著書にある”グループソウルの法則”に触れる瞬間ではないでしょうか。
今回の事件では、凄惨な殺害事件の最中、人が人の盾となり、身を挺して他人を救ったという美談がありました。
私たちは、犠牲者が示した愛の学びを、正面から見つめるべきだと思います。
また、単なる美談とするのではなく、そうした行為に及ぶ勇気を備えたたましいが、その場に存在したということを見つめるべきです。
もし同情で片付けようとするなら、その気持ちは物質主義的価値観によるものではないでしょうか。
それでは、悲しみの連鎖は止まらないと思うのです。
たましいの視点では、人と人はたましいで繋がり合った存在です。
ですから、私たちはテレビを通した出来事であっても、確かに関わり合っています。
”八つの法則”にある、『グループソウルの法則』です。
私たちの身近な社会でも、いつ同様の事件が起こっても不思議ではありません。
だからこそ、一人一人が霊的真理に触れ、理解を深めて、世の中に大我の愛を拡げてゆかねばならないのです。
孤独のただなかにいる人に、江原啓之さんの著書『いのちが危ない!』を、是非とも手に取っていただきたいと思います。
バージニア工科大学を襲った悲劇で亡くなられた皆様のご冥福を、心からお祈りしています。
用語解説:【小我と大我】
人はこの世に生を受けるとき、たましいを肉体に宿して生まれてきます。
肉体は、”物質”です。
リアリティのある存在に宿ることで、個性が際立つとともに、他者との隔たりを強く意識づけられることとなります。
五感が主体的判断基準となり、肉体に宿る自分自身以外は、すべて他者としてとらえるようになります。
このように、たましいが肉体に宿ることで、”物質主義的価値観”にとらわれやすくなり、利己主義的な愛情を持ちやすくなります。
自分と他者との隔たりばかり意識すると、分け与えることは苦痛でしかありません。
そうした自己中心的な価値観でいると、打算的な愛情しか持てなくなってしまいます。
見返りを求める善意や愛は、条件付きの狭い世界でしか成立しない愛といえます。
こうした物質主義的価値観にとらわれた愛を、”小我の愛”と言います。
人は、たましいの存在です。
肉体は、この世でのみ味わえる、経験と感動を得るための道具に過ぎません。
しかし、この世に生を受けるとき、そうしたことを忘れて生まれてきます。
肉体を得たことにより、物質主義的価値観にとらわれやすい環境の中、自己中心的な愛によって生み出される試練を味わいます。
しかし、”小我の愛”はいくら繰り返そうとも、本当の意味での愛ではありませんから、満たされることはありません。
そうした中で味わう絶望を経験し、人はみずからがたましいの存在であることを、思い出してゆくのです。
豊かなときも、そうでないときも、等しく優しさを持てるたましいに成長してゆきます。
見返りを求めず、ただ相手を思っての愛を、実感するようになります。
苦難の経験を積み、たましいの視点を取り戻すことで、他者との隔たりの意識から、少しずつ解放されてゆきます。
たましいの存在であるということを思い出してゆく課程のなかで、愛し愛されることの心地よさを学びます。
そうすることで、すべてのたましいは本来ひとつの存在であるということを、少しずつ理解してゆくのです。
これが、”大我の愛”です。
人は、たましいの存在であると共に、現世では肉体を持った存在でもあります。
ですから、肉体を持った状態を超越して、小我を無くした存在とはなり得ません。
どんなときも、小我の未熟さを大我に変え続ける、努力をする存在です。
この世でさまざまな経験と感動を積みながら、できるだけ大我の愛をもち得る存在になることを目指して、生き抜いてゆく存在なのです。
泥のなかの蓮の花
昨日の夜中にふとテレビの電源を入れたところ、奇妙な番組を目にしました。
『ジェネジャン、スピリチュアル・カウンセラー大集合』と題された番組でしたが、横目で観ていても奇妙キテレツな出演者ばかりが・・・、見事なほどに並んでいました。
1000万人にひとりの霊能者だ、占い師だ、巫女だというのは勝手なのですが、番組のタイトル通り、皆が”スピリチュアル・カウンセラーです”、と呼称されているのには、絶句すると共に、哀しさすら感じてしまいました。
テレビにありがちの構図とはいえ、おなじみの大学教授も登場し、キテレツな占い師と科学史上主義者との支離滅裂な討論のなか、翻弄されるコメンテーターのみなさんを目にして、このような低俗な番組が成り立って欲しくないという想いで、観るに堪えませんでした。
ほんの2年くらい遡れば、自称でもここまで多くの占い師たちが、”スピリチュアル○○~”などと、名乗っていなかったように思います。
そもそも、スピリチュアル・カウンセラーとは、江原啓之さんが初めて名乗られたものだったはずです。
このような番組を、偶然にでも目にしてしまったということ自体、自分にとっても意味するところがあったのだと感じています。
無責任に言いたいことをのたまう占い師や自称・霊能者を目にして、彼らにすらすがってしまう人たちが、未だ数多く存在しているのだということを、あらためて実感してしまいました・・・。
相談者自身も、自分愛しさの小我ゆえに至る道とはいえ、もう少し冷静になる目を養ってほしいと、願ってやみません。
霊的真理を学ぶようになってから、それらを生業とするものへの見る目が、変わってきたように実感しています。
いわゆる、”ホンモノ”か、”ニセモノ”かを、見分ける力です。
霊的真理にもとづいて生ている人ならば、現世的な利益追求や、虚栄心、自己顕示欲のみをもって、活動しようはずがありません。
いたずらに相手を不安に陥れたり、物を売りつけたり、法外な金銭を要求しようはずもありません。
根拠のない因縁や前世による障りだと不安にさせ、みずからへの依存心を煽るような行為に、至るはずがありません。
悩みのなかにあり、不安に苛まれている人たちは、そのような誘いに乗ってしまいがちです。
しかし、霊的真理にもとづくカウンセリングならば、相手の依存心につけ込んだり、小我を助長するような行為を、しようはずがありません。
小我に囚われて弱った心に、それを利用しようと小我の存在が寄り添ってくることは、お互いが招いた結果と考えられます。
まさに、”波長の法則” です。
相談者自体が相手の持つ力に依存し、たやすく解決することを望むなら、そんな都合の良いことはないのだと理解できるよう、たましいの視点で理解をうながしてあげるべきではないでしょうか。
もし悩みを解決する魔法が使える占い師がいたとすれば、他人の抱える課題を奪うカルマを積み続け、とても大きな精算をしなければならなくなるでしょう。
霊的真理の実践者は、みずからの人格を高める努力を惜しまないはずです。
相手が人格者かどうかは、霊的真理にもとづいて相手を見れば、いかようにもわかるはずです。
人を助けたいと思う心は、愛に満ちています。
人を助けるという行為は、愛の行為です。
しかしそれは、相手の求めに応じてあげることや、悩みを肩代わりしてあげることではありません。
そもそも、人生の課題は、みずからが乗り越えるしかないはずです。
もし他の誰かが肩代わりしてくれたとしても、それは一時の安楽でしかありません。
人間は、それらの苦難を乗り越える経験をするために、生まれてきているのです。
自称霊能者や占い師のように、悩みを解決して”あげる”ということ自体、相手の学びの機会を奪ってしまうだけの結果になっているように思えます。
余計なお世話以上に、傲慢さの表れです。
このような番組を目にしたり、自称○能力者なる人たちに相談したいと思うならば、今一度、内観の機会を持っていただきたいと思います。
ゲストのなかで、米良美一さんだけが、言葉を選びつつも、筋の通ったことをおっしゃっていました。
そのシーンを観て、私は江原啓之さんの『いのちが危ない!』 の一節を、思い出しました。
・:*:・泥のなかにポツン咲く、蓮の花をさがしましょう・:*:・
泥とは、物質主義的価値観の小我にまみれた、この世のありようです。
一面が泥の世界であっても、良く見渡せば、時折ポツンと蓮の花が咲いているのを見つけることがあります。
この蓮の花こそ、『真・善・美』であり、大我そのものの存在です。
人は、たましいの存在だからこそ、どんなに心が曇ったとしても、たましいの視点を完全に失うことはないと思います。
進んで霊的真理の学びに向かえば、この世界のなかにも、一輪の蓮の花を見つけることはできるはずです。
私にとっては、江原啓之さんの書籍との出逢いが、まさにそうでした。
キテレツな番組のなかでも、彼の存在だけが、そうであったと思えます。
(なぜ出演したかは、よくわかりませんが・・・)
そういえば、江原啓之さんの目標は、”霊能者撲滅” とのことです
。
その目標の意味するところを、あらためて実感した瞬間でした。
そして、私自身、もっと霊的真理を学ばなければと、想いを強めたできごとでした。
それにしても、テレビ局には、電波をもっと有効活用してもらいたいものです。
あの、3月31日の番組
のように。