一度の再生の旅で経験できることには限りがある。

だから私たちは、何度も何度も再生を繰り返しては、まだ経験したことがないような経験をして、「神我」の中のまだ真・善・美と大我の愛の光を放ていない部分を輝かそうとしているに違いがない。


どんな経験も、私たち一人ひとりにとって、なくてはならないかげがえのないものだ。

そこには、私たちの「神我」の、まだ真・善・美と大我の愛の光を放っていない部分を光り輝かすために必要な感動があるはずだ。

だから、どんな経験に対してだって、不平不満を言うなんてもったいないことだ。

今度の経験は、どんな真・善・美と大我の愛が込められたメッセージなのだろうか?

そんな期待と希望を胸に、様々な経験を積める人生に感謝しながら、旅を続けていきたいものだ。
その他、結婚する学び、しない学び、子供を持つ学び、持たない学び、家族を持つ学び、持たない学び、など、様々な「ある学び」「ない学び」があるが、いずれも共通のテーマを別の角度から見ているようなもので、様々な問題に直面したり、様々なことを考えさせられたりしながら、そのテーマからの学びを深めているのだと言えるだろう。


私たちが現世に再生してくる目的は、現世でしかできないような様々な経験をして、その経験から喜怒哀楽の感動を得ること、そして、自らのたましいの中の「神我」、真・善・美と大我の愛を、よりいっそう発揮できるように成長することだと言っていいだろう。

様々な真・善・美と大我の愛に触れて、触れた真・善・美と大我の愛に呼応する、自らの内なる真・善・美と大我の愛を輝かせていくためとも言えるだろう。

そのために、あらゆる経験を積んで、あらゆる真・善・美と大我の愛に触れて、自らの「神我」が、神そのものの輝きを放つようになるその日まで、私たちの再生の旅は続いていくことだろう。
(6に続く)
一方、父性と母性のような場合には、どちらも必要な要素であって、優劣がつけられるわけでもない。

ただ、現世に再生するにあたっては、自らのたましいを成長させるために、より適した方の性別を選択しているはずだから、男性なら、母性を理解しながらも父性をいかにして学び実践していくか、女性なら、父性を理解しながらも母性をいかにして学び実践していくかというテーマを持っているのではないかと考えられるだろう。


また、「ある学び」と「ない学び」ということもある。

たとえば、現世に病気というものが存在せず、誰でも健康なのが当たり前だとしたら、誰も健康であることの意味を深くは考えないだろう。

現世に病気の人が存在し、自らも病気になることがあるからこそ、私たちは病気の人の気持ちを理解することができるようになる。

病気は苦しいことだが、その過程を通して、優しさや思いやりの大切さを学ぶことができるわけだ。

また、たましいの「思い癖」は、肉体的な症状としても出ることがあるから、病気の症状として表れたメッセージに気づくことによって、自らの霊的真理に反したたましいの偏りに気づくこともできるわけだ。
(5に続く)