その人の喜びを自らの喜びとする。
その人の悲しみを自らの悲しみとする。
そして、その人に喜んでもらうために、自分には何ができるか?
その人を悲しませないためには、どうすればよいのか?
そのようなことを想像することもできるはずだ。
その時に、自分を無にして、相手のことを考えないと、思うような結果にはならないだろう。
自分の思い込みで、こうしたら相手は喜ぶだろうと思って実行しても、相手はかえって困惑するばかりということもあるものだ。
それは、自分を無にして、相手のことを慮っていないから、相手が本当に求めていることがみえないということだ。
この、自分を無にするということが、小我の自分、すなわち、物質主義的価値観による利己愛や打算の愛を無くすということにあたるわけだ。
そして、利己愛や打算の愛、すなわち「小我の愛」による自らへの過度のこだわりが無くなったところに、たましいの本質「神我」から「大我の愛」が表出してくるのだ。
(4に続く)