その人の喜びを自らの喜びとする。

その人の悲しみを自らの悲しみとする。

そして、その人に喜んでもらうために、自分には何ができるか?

その人を悲しませないためには、どうすればよいのか?

そのようなことを想像することもできるはずだ。

その時に、自分を無にして、相手のことを考えないと、思うような結果にはならないだろう。

自分の思い込みで、こうしたら相手は喜ぶだろうと思って実行しても、相手はかえって困惑するばかりということもあるものだ。

それは、自分を無にして、相手のことを慮っていないから、相手が本当に求めていることがみえないということだ。

この、自分を無にするということが、小我の自分、すなわち、物質主義的価値観による利己愛や打算の愛を無くすということにあたるわけだ。

そして、利己愛や打算の愛、すなわち「小我の愛」による自らへの過度のこだわりが無くなったところに、たましいの本質「神我」から「大我の愛」が表出してくるのだ。

4に続く)

一方、広義の類魂とは、全てが神の一部であるという視点において、全ての存在が1つであるということを意味する。

家族であっても、親しい友人であっても、狭義の類魂は別なのが普通だが、広義の類魂の意味合いにおいては、全ての存在が本来1つであるということだ。

人間だけではなく、動物も植物も鉱物も、そして神も全ては1つ。

私はあなたであり、あなたは私である。

私は全てであり、全ては私である。

それが広義の意味での類魂ということだ。

ただ、誰でも一足飛びに、私は全てであり、全ては私である、などという究極の自覚が得られるのかと言えば、そういうわけではない。

本当にそのような自覚が持てたら、一瞬にして現世にいる必要がなくなって、すぐにも神と一体化することができるだろう。

しかし、霊界が無数の階層に分かれた世界であるように(「階層の法則」)、進歩とは、一歩々々、階段を登るような段階的なものであって、一足飛びにはいかないものなのである。

だから大切なことは、いきなり大風呂敷を広げて、全人類を愛そうなどと意気込むことではなく、まず、自分が好感を持てる人であってもよいから、その人のことを、自分のことのように感じる想像力を養うことだと思う。

3に続く)

私たちが、現世に再生した目的は、自らの未熟な「小我の愛」を「大我の愛」へと改め、たましいを浄化・向上させるためであることは何度も述べてきた。

そして、その「大我の愛」の実践の前提となるのが、「類魂(グループ・ソウル)の法則」の深い理解であるわけだ。

そういう意味では、私たちは、この「類魂(グループ・ソウル)の法則」の理解を深めるために生まれてきたと言い換えることもできると思う。

ただこの「類魂の法則」、どうも今1つ理解が難しいというような声を聞くことがある。

そこで今回は、どうしたら、この「類魂の法則」の理解を深め、「大我の愛」の実践がし易いか、私自身の経験を元に考察してみたいと思う。

まず初めに、「類魂の法則」には、狭義の意味と広義の意味があることを確認しておきたい。

狭義の意味での類魂とは、霊界に存在する、私たち一人ひとりのたましいの家族、たましいのふるさとのことである。

私たち人間の本来の姿は、人体のような形を持った存在ではなく、類魂という名の姿形なき存在なのだ。

その狭義の類魂の中の一部が、今、現世に再生している私たちなのだ。

私たちは、何度も繰り返して現世に生まれてきては、自らの類魂を浄化・向上させようとしているが、毎回、現世に生まれてくるのは、類魂の中の別の部分であって、全く同じ部分というわけではない。

これを部分再生と呼ぶ。

すなわち、狭義の類魂とは同じ個性を持ち、それぞれの部分が再生した時に得た経験を共有しながら、全体を浄化・向上させようとしているわけだ。

このように、狭義の類魂の中には、自ら自身の前世が存在し、守護霊も存在するのが普通だ。

2に続く)