今回は、人は何のために生まれてくるのかという、根本的なテーマについて考察してみたい。
人が生まれてくる意味を知るためには、まず、人間の本質は肉体ではなく、スピリットであって、死して死なず、永遠に生き続ける存在であることを理解しなくてはならない。
これを「スピリット(霊魂)の法則」という。
「スピリットの法則」はスピリチュアリズムの原点でもあり、これがなくては、そもそもスピリチュアリズムが成り立たない。私たちはスピリチュアリズムを学んでいるつもりでも、物質主義的価値観という落とし穴に落ちてしまいがちであるし、自らの課題を乗り越えられずに立往生しそうになることも多いものだ。でも、そんな時こそ、この「スピリットの法則」という原点に立ち返って、自らの本質が永遠に生き通しのスピリットであることの、認識を深める必要があるのである。
誰が何と言おうと、認めようが認めまいが、それは自由であるが、真実は1つ。私たちは、ただ一人の例外もなく、全員が神の本質と等しい神性を宿したスピリットなのである。
そして私たちは、神であるという、その本来の性質故に、その内に秘めた神性、すなわち真・善・美と大我の愛を、よりいっそう発揮していこうとする向上心を抑えることができない存在なのだ。
私たち一人ひとりが個性と自由意志をもった存在であるから、その神性の発揮されている度合いは人それぞれであろう。その差が、「ステージ(階層)の法則」によるように、人格・霊格の違いともなっているのである。しかし、皆、その神性をよりいっそう輝かせようと努めていることに変わりはないし、その本質の神性を宿したスピリットの価値の素晴らしさに違いがあるわけではない。
その神性をよりいっそう発揮させようとして、私たちは、この霊的世界の中のあの世(狭義の霊的世界)とこの世(現世)の間で、何度も再生を繰り返しているのである。
なぜ、2つの世界があって、その間で再生を繰り返す必要があるのかといえば、そのほうが、スピリットが向上しやすいからである。
何でもそうだが、私たちが学びを深めるためには、学んだことを、実際に体験してみる実習の場が必要なのである。その実習の場こそが、この現世であると言ってもいいだろう。
たとえば、人に対して優しさが足りないという欠点を自覚したとして、もっと優しくなろうと決意したとしよう。しかし、狭義の霊的世界は、階層世界であるので、幽界の下層部などを除けば、周りにいるのは良い人ばかりだ。
良い人、優しい人に囲まれた世界で、自らも優しく人に接することは難しくはないはずだ。だから、自らの優しさが本物であるかどうかは、意地悪の人や怒りっぽい人など、自分にとって都合の悪い人と接した時に試されることになる。もし、その優しさが本物なら、どんな環境でどんな人に対しても、優しさを発揮できるはずなのである。
そのような実体験を積む場として、この現世は最適なのである。この現世の中で、様々な人と出会い、様々な経験をすることによって、自らが優しさというものを、どこまで深く自覚しているのか、どこまで実践することができるのかを試すことができるのである。そして、その経験から得る学びによって、さらに優しさに対する理解を深めることができる。優しくすることと甘やかすことの違いを学び、時には厳しく接することこそが優しさであることを学ぶこともあるかもしれない。
このように私たちが、現世に生まれてくるのは、自らの神性を、よりいっそう発揮し、スピリットの輝きを強めるためなのである。
私たちは、前世、すなわち、前回の現世での経験を基に、まだ、自らのスピリットの中の神性の輝きが不十分な部分の輝きを強めることをテーマと定めて、その実現のために、最も相応しい時代や環境、家族や性別、肉体的特徴、寿命などを選んで生まれてくる。それらを宿命と言い、生まれてから変えることができない。
しかし、私たちは、自らを向上させるために最も相応しい宿命を選んできたのだから、宿命を素材として受け入れた上で、「運命の法則」を使って、どのようにでも人生を変えていくことができるのである。
そのためには、「カルマ(因果)の法則」、「波長の法則」を熟知し、実践していけばよいのである。
この世で起こることには偶然はなく、全ては必然なのである。これは、全て起きたことには原因があり、原因と結果の間には因果関係があるということなのである。
結果をみれば、自らの思い・言葉・行動の真実の姿が分かるのである。「カルマの法則」「波長の法則」のあるお陰で、私たちは、自らを振り返り、自らの真実の姿に気づく機会を得ることができる。気づくことは向上のための第一歩なのだ。もし、「カルマの法則」「波長の法則」がなかったら、私たちは、自らを改め、向上させていくことができなくなるだろう。
私たちが出会う人、私たちの身や周囲に起きること、さらには私たちが見聞きすることまで、全て偶然ではないのである。私たちが、それらの結果となる原因の種子を蒔いたり、それらと相通じ、それらを引き寄せる波長であったということなのである。
「カルマの法則」「波長の法則」は、私たちを向上させずにはおかない法則である。したがって、それらの法則によって、必然的に出会う人や出来事には、必ず私たちの向上のために必要な何らかの意味があるのである。
その意味に気づき、改めるべき点は改め、さらに伸ばすべき点は伸ばしていくことによって、私たちは、自らのスピリットの神性を、よりいっそう発揮することができるようになるのである。
神性の発揮とは、真・善・美と大我の愛の発揮ということである。
問題と直面し、その克服が困難な時、私たちは自問自答するべきだと思う。その問題の克服が困難なのは、小我の自己への拘り、執着が捨てられないからではないのかと。
全ての問題解決への鍵は大我の愛にあると言っても過言ではないだろう。大我の愛は「グループ・ソウル(霊魂)の法則」の理解に基づく自他一体の自覚から生まれるものだ。故に「大我の愛」は「神の愛」であり、神そのものでもある。
大我の愛を実践している時こそ、私たちが神性を発揮している時なのである。大我の愛を、よりいっそう実践できるように成長することが、神性を、よりいっそう発揮できるように成長することなのである。
大我の愛を実践している時、私たちに恐れるものはなく、真実の幸福感に満たされるはずだ。幸福な人生とは、大我の愛と共に生きることだと言ってもよいだろう。
それ故、大我の愛を実践しているつもりでも、どこかに恐れや不安、悩みや苦しみといった不幸感覚があるならば、どこかが小我に置き換わってしまっていると言えるだろう。
大我の愛を実践しているのだから、こういう結果が出るはずだという期待なども小我の愛だと言えよう。結果主義は自らの幸不幸の判断を結果に委ね、依存してしまうが故に物質主義的価値観であり、自らに都合の良い結果を期待する意味において小我の愛なのである。
大我の愛の実践においては、その実践そのものが幸せなのであって、その幸福感が結果によって左右されるものではないのである。もし、素晴らしい結果が得られたとしても、それが求めていた本質ではなく、付録のおまけのようなものなのである。
今の時代、私たちがスピリチュアリズムの実践をしても、目に見えるような大きな変化を実感することは少ないかもしれない。理解されることよりも誤解されるようなことが多いかもしれない。
しかし、たとえ私たちが現世にある間に、劇的な変化がなくても、私たちは結果に一喜一憂することなく、大我の愛と共に生きるだけである。
大我の愛と共にある時、私たちは常に希望と共にあり、神がそうであられるように、いつまでも待つことができるのである。