「神我」の性質は神そのもの、すなわち真・善・美と大我の愛であるから、私たちが、自らのたましいの輝きを強め、成長していくために、善悪や美醜の、どちらを選択すべきかは明らかだろう。

しかし、私たちの成長にとっては、善とは何なのか悪とは何なのか、あるいは、美とは何なのか醜とは何なのか、それらを十分に理解した上で、善なり美なりを選択することが大切なのではないかと思う。

悪を選んだり醜を選ぶこともできるのに、その意味を理解した上で、善や美を選ぶからこそ、そこにたましいの成長があると言えるだろう。

もし現世が、善しかない、美しかないという世界だったら、私たちは初めから善や美しか選択することができないわけで、善や美の真の意味を理解することも、その過程を通して、成長することもできなくなってしまうだろう。
(4に続く)
男性と女性についても同じことが言えるだろう。

もし現世に、男性しかいなかったら、もしくは女性しかいなかったら、男とは何なのか、女とは何なのか、すなわち父性とは何なのか、母性とは何なのか、それらを理解することは、極めて困難になると思う。


光と直面し、光とは何かを知るからこそ、闇とは何かが分かるものだ。

また、闇と直面し、闇とは何かを知るからこそ、光るとは何かが分かるわけだ。

そして、両者を知った上で、自らのたましいを成長させるためには、光を選ぶべきか闇を選ぶべきか、そのような選択を迫られることもあるかもしれない。

たとえば、善悪とか美醜のように、どちらを選ぶべきかが明白な場合もあるだろう。

その判断基準は、私たちのたましいの本質である「神我」にあると思う。

分かりやすく言えば、良心と言ってもいいかもしれない。
(3に続く)
この現世を見渡してみると、様々なことが2極化された、2つの要素によって成り立っていることが分かる。

光と闇、陽と陰、昼と夜、プラスとマイナス、男と女、善と悪などがあるだろう。

それはなぜなのだろうか?

現世には、無駄なことや、無意味なことは存在しないはずだ。

存在するからには、そこに必ず、私たちのたましいの成長のために必要な何かがあるはずなのだ。


現世の様々な部分が、2極化された2つの要素で成り立っていることの意味を理解するには、逆に、現世に1つの要素しかなかったらどうなるかを考えてみるとよいと思う。

たとえば、現世に闇がなく、光しかなかったらどうなるかを考えてみるとよい。

闇がない世界では、当然、闇とは何かを知ることはできない。

さらにそれだけではなく、光しかなければ、光そのものがいかなるものかを、客観的に理解することさえも難しくなるだろう。

光に対する闇があるからこそ、私たちは光と闇の対比の中で、光に対する闇とは何なのか、また闇に対する光とは何なのかを、より明確に理解することができるのではないかと思う。
(2に続く)