出すことに意義がある? | 大学という斜陽産業

出すことに意義がある?

試験ではなく、レポートのネタです。数日前の書き込みなのですが、フラスコ氏の丸うつしレポートから。

自分の場合、ネットに公表されている同業者の論文の名前だけを書き変えて提出されたのを始めて経験したのは、5年前ですね。今の勤務先に移ってすぐのことですから。出だしからして、学生らしからぬ文章。注のところで、「拙稿」とある。オイオイ、おまえはもうそんなに論文書いているのかよぉ。うらやましいぜ(というのは冗談)。

こんな間抜けな例もあります(これは3年ぐらい前の話)。今やレポートはメールで提出させているのですが、ある学生から連続2通のメールが届きました。で、見てみると、後から届いた方には(いまや多くの大学がやっているように、学生全員にIDをあたえているのですが)

「IDとパスワードを忘れたので、友達のアドレスから送ります。」

とある。ここまでは良い。で、レポートの本文になると、その友達と同じなんですね。ちょっと待てよ、ただでさえ友達のアドレスから送って目立っている、しかも友達に続けてすぐに送っている。しかも、内容が全然無い。(10行ぐらいなんだもん。いくら分量自由って言ったってねえ、それはないでしょ。)オリンピックじゃないんだから、出せばいいってもんでもないでしょ。

そのため、読書感想文であって、レポートと呼べないことを承知で、課題図書なるものを定めて、そこに沿って書かせることにしました。そうすれば、少なくともその本は読むだろうと。でも、これもメールで提出させているせいか、友達のをコピー・ペーストするのが多いので、あまり効果的ではなかった。でも、未だこの方法を続けています。

同僚には、この時代、「手書き」しか認めないという荒技に出た人も。流石にそこまではできないなあ。