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Deep Record

クラシック音楽(特にオーケストラ)を中心に、興味の赴くところをひたすらマニアックに紹介していきます。

まだまだ続く、ヘルマン・シェルヘンによる爆演集。次はベートーヴェンの「交響曲第9番」だ。第4楽章をお聴きいただこう。最初に断っておくが、早送りとかスロー再生とか、そういうのは一切ない。



冒頭、凄まじいテンポで開始される。この速すぎるテンポ設定は、実は楽譜を遵守したものである(もともとの楽譜は付点二分音符=66となっているが、慣例的には四分音符=66という1/3のテンポで演奏されている)。ピリオド奏法の普及とともに原典重視が叫ばれるようになった昨今においては、慣例の3倍速となるこのテンポ設定は、もはや珍しいものではなくなりつつある。しかし、シェルヘンがこの演奏を行った1965年には、このテンポをとる指揮者はおそらくまだほとんどいなかったはずだ(現代で初めてこのようなテンポで演奏したルネ・レイボヴィッツの録音は1961年のものであり、ほぼ同時期である)。聴衆にとっても、演奏者にとっても、この第4楽章の冒頭は信じがたい衝撃であったことだろう。1824年に行われたこの「第九」の初演時に人々が感じた衝撃も、実はこういったものではなかったのだろうか。
そして、この凶暴さ。メトロノーム的にはロジャー・ノリントンやクリストファー・ホグウッドなど古楽オケの指揮者も同じくらいのテンポをとっているのだが、出てくる音楽はあまりに違いすぎる。アンサンブルの精度や音の透明度などは完全に度外視、ルバートは一切せず、歌心なども皆無で、見栄も外聞もかなぐり捨て、ただ一丸となって、何かに向かいひたすら突進する。

荒れ狂う冒頭部が終わった後、低弦による「歓喜の主題」(02:00~)は、意外にもきわめて遅いテンポで、冷ややかに、表情を徹底的に抑えて開始される。この部分の異様な存在感、緊張感はなかなかのものである。しかし、この冷静さを保てたのも束の間。04:15あたりで突如、異常なテンションの高まりを見せ、金管が入ってきた瞬間にまるでブチ切れたような強奏に突入する。

バリトンソロとオケのテンポ設定が全く噛み合っていない5:50あたり~は、お互いにとても不幸だっただろう。さすがのシェルヘンもソリストにまでこのテンポを強要することはできなかったのだろうか。ソリストは完全に慣例の遅いテンポで歌い(ずいぶんのんびりと聴こえてしまう)、オケの合いの手はその3倍速で突っ込む。お互い全く譲る気配はない。

この荒れ狂う第4楽章を聴くと、「第九」、ひいてはベートーヴェンという作曲家のイメージもずいぶん変わってしまうことだろう。第九は人類の平和を高らかに歌い上げる感動の名曲などではなく、狂信的なまでの情熱で大団円を、救済を希求する、狂気すれすれの分裂的気質を持ったただの一個人の、歪んだ激しい妄念の塊に見える。そしてシェルヘンの演奏は、ベートーヴェンの音楽からそういった狂気を躊躇なく抉り出す、数少ない演奏のひとつだと言うこともできるだろう。普通の演奏家なら、「第九」のような立派な面構えの曲からそういった狂的な情念を抉り出すことを躊躇するか、またはその存在に気づくこともない。

実はこの「第九」の演奏会のリハーサルの録音も存在している。リハーサルでは最後のコーダに入るところでオケが崩壊して止まってしまい、指揮者がキレて怒鳴り出す、という一幕も収録されている(下の動画の1:04:40前後)。先にも述べた通り、当時にあってはきわめて常識はずれなテンポ設定であったのだから、これは仕方ないことである。しかし、リハーサルでここまで完全に崩壊してるのに、それでも挫けずにこのテンポを貫徹したシェルヘンの意志の力にはただ恐れ入る。
リハーサルでのシェルヘンはまるでただの癇癪オヤジのようだ。こちらも併せてご一聴いただきたいと思う。



これらの録音を発売するというのは、レコード会社にとっても勇気の要る決断だったのではないかと推測する。筆者は彼らに心から敬意を表したいと思う。

(蛇足ながら、シェルヘンの「第九」にはウィーン国立歌劇場管弦楽団を指揮したスタジオ録音もあり、そちらでは完全に慣例のテンポに従っている。マーラーのときもそうだが、スタジオ録音と実演で根本的にスタイルが変わることがあるのもこの指揮者の特徴である。)


次は、再びマーラーを聴いていただこう(読者諸氏ももううんざりされているかもしれないが、残念なことにまだまだ続くのである)。マーラーの交響曲第9番、ウィーン交響楽団との実演(1950年)である。この演奏は「第9番」演奏史上で最もテンポの速い演奏として知られ、総演奏時間は約69分である。ちなみに、遅い方では近年のエッシェンバッハやギーレンが100分近い時間をかけている。気になる方はぜひご一聴されたい。



まず第1楽章。かなり早めのテンポである。冒頭は全く歌わない。歌わせない。早足で、乾ききった音色で演奏される。
01:50あたりから高まってくると、前触れもなく急に加速が始まる。アンサンブルは大いに乱れるが、気にしない。ぐいぐいと引っ張っていく。その後も音楽の高まりにあわせてしばしばオケは狂奔の渦に巻き込まれる。なかなかスリリングな演奏である。
第2楽章(21:10~)は遅めのテンポで表情を抑えて始まるものの、やはり随所でブチ切れ、乱れる。第3楽章のラスト(48:30~)の爆走ぶりは凄まじい。合奏は例のごとく完全に破綻している。メトロノーム的には同じくらい速い人も決して少なくないのだが、この「爆走」としか表現しようのない激しさはなんなのだろう?
そして最終楽章。マーラーの書いた音楽の中でもことさらに耽美的な音楽であるにもかかわらず、シェルヘンは早速51:10あたりでブチ切れ、その後も頻繁に小刻みなテンポ変化を繰り返す。最初の変奏に入る直前(54:10)はかなり大きなリタルダンドをかけ、ゆっくりと次の場面に入っていくが、やはりその後もちょっとしたクレッシェンドに合わせてすぐに前に行きたがるなど、なかなかに落ち着かない演奏である。
シェルヘンより後の時代には、例えばバーンスタインの演奏のように、このフィナーレ(特に後半)はことさら遅いテンポで演奏されることが多くなり、「天上の音楽」あるいは「浄化」「告別」といった印象が強い音楽となった。この「第9番」はそれ以前の作品とは大きく性質が違って、新たな境地を切り開いたものであるとする向きも多いし、実際に筆者自身もそう思う。しかし、このシェルヘンの冷徹と焦燥と狂奔が同居しているような奇妙な演奏を聴けば、この曲も結局「第5番」「第6番」などの延長にある、きわめて分裂的な狂気の音楽という側面も強いことがよくわかる。


最後に、スタジオ録音だが、バッハの「マタイ受難曲」。1953年、ウィーン国立歌劇場管弦楽団などによる演奏で、実は史上初の「マタイ受難曲」全曲(ノーカット)の録音とされているものである。さすがに全曲を詳細に解説はできないので、ここでは第1曲と終曲のみ、取り上げたいと思う。



冒頭の第1曲は、激しい怒りと焦燥の音楽だ。早めのテンポ、鋭角的なフレージングで、情け容赦なくぐいぐい進めていく。特に、リズムを刻む低弦が激烈だ。先に挙げたマーラーの第6番なども少し彷彿とさせる。



終曲(1:42:10~)は、冒頭とは別人のように荘厳である。非常に遅いテンポで(10分以上かかる。ちなみにフランス・ブリュッヘンは5分を切っている)、冷たく、感情を押し殺したように、あくまで静かに歌われる。
音量が大きくなっても、その静謐な雰囲気は失われることはない。マーラーのときのように突然カッと熱くなることはない。あくまでも冷ややかである。しかし、このバッハの宗教曲において、それは実に厳粛に、重々しく、そして神々しく響く。この緊張感は10分を通して途切れることなく持続し、そして、この長大な作品の最後を飾るにふさわしく、厳かに締め括られる。


シェルヘンにはその他にも多くのスタジオ録音が残されており、一聴に値するものも少なくない。爆演を面白がるだけでなく、幅広い時代にわたる多くの作品を取り上げたスタジオ録音の方も併せてお聴きいただければ、この指揮者の違った側面が見られることだろう。