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Deep Record

クラシック音楽(特にオーケストラ)を中心に、興味の赴くところをひたすらマニアックに紹介していきます。

古楽界の先駆者であり、まぎれもなく20~21世紀を代表する指揮者であるニコラウス・アーノンクールが、先日、自らの演奏活動に終止符を打つことを表明したという。86歳の誕生日を目前にしたところであった。


かつて創成期の古楽オケ界を牽引したのは、グスタフ・レオンハルト、フランス・ブリュッヘン、そしてニコラウス・アーノンクールの3人であった。彼らはそれぞれチェンバロ、リコーダー、チェロのプレイヤーとして一世を風靡した人物でもあった。

3人のうち、レオンハルトは2012年に、ブリュッヘンは2014年に、それぞれ亡き人となっており、この2015年にはアーノンクールが引退を表明したことで、古楽オケ界は大きな転換点を迎えざるを得なくなるだろう。


以下は至極個人的な話である。初めてアーノンクールの音楽と接したのは確か高校生のとき、モーツァルトの「ジュピター」のCDだった。第1楽章の冒頭、「ド、ソラシド、ソラシド!………………ドドーシレードソーファ」といきなり変な間が空くので有名な演奏だ。それは、衝撃というより、当時の未熟者だった私には「笑撃」であったかもしれない。その後しばらく、古典派からドヴォルザークやブルックナーあたりまで、いろいろと個性的な演奏を面白がって聴いていた。そしてある時期になって、ほとんど聴かなくなってしまった。


しかし、2010年の最後の来日公演は私も聴きに行った。曲はバッハの「ロ短調ミサ曲」だった。

これは一生忘れられないような体験となった。独特のアーティキュレーションは健在でありながら、その強烈な説得力、聴く者に与える異様なまでの感銘、そして音楽の深遠なことは、以前CDで聴いてきたのとはまるで別人のようだった。弱音部の静寂は単に音量が小さいだけでなく、この世ならぬ世界を感じさせるものであったし、いくつかのデクレッシェンドの部分では、本当に自分の体が吸い込まれていってしまいそうな感覚に襲われた。

彼の演奏がこれほどまでに深い印象を与える理由は、古楽器を用いていることや彼の演奏の方法論、個性的なアーティキュレーションなどといった表面的なものではなく、もはや、彼の音楽観、人生そのものなのではないかと、そんなことを思いながら、私は同じ会場にいた幾人かの知り合いにも声をかけることなく、黙って帰途についた。どこがどう素晴らしかったというようなことはどうでもよかった。人に感想を訊かれれば、「すごかった」というようなバカみたいな言葉しか出てこなかっただろうし、いまに至ってもそうだ。



彼が活動した20世紀から21世紀にかけて、オーケストラは、音楽は、そして世界は大きくそのあり方を変貌させた。彼のような音楽家が登場することはこれから先あるのだろうか。私は彼の音楽に接することができた幸福を、これから先も忘れることはないだろう。