ゴロワノフ、シェルヘンなどを取り上げてきた後で、やや今さら感もなくもないが、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1888~1954)について書きたいと思う。
フルトヴェングラーは筆者にとっても最も思い入れのある音楽家のひとりであり、書きたいことは山のようにあるのだけれども、彼についてはすでに多くの価値ある評論もあることなので、わざわざ筆者なぞが今さら屋上屋を架すこともなかろうと思う。それでも、ひとつだけ紹介させていただきたい。彼のベートーヴェンやブラームスなどのメジャーレパートリーについてはすでに語り尽くされている感もあるので、ここでは敢えてバロックから、ヘンデルの「合奏協奏曲」という、弦楽合奏による作品を取り上げる。
フルトヴェングラーによるバロックは、バッハやヘンデル、グルックなどそれなりの点数が残されているが、いずれも彼がドイツ・ロマン派を指揮したときと同じように、重厚にして壮大な仕上がりになっている。特にこのヘンデルの合奏協奏曲(Op. 6-5)は格別だ。
まず冒頭からして只事ではない。短い独奏ヴァイオリンの導入のあとに弦楽合奏がトゥッティで入るのだが、その和音の凄まじいこと。まさに乾坤一擲、一瞬に全てを懸けるような緊張感は、同じ演奏者による「コリオラン」や「エグモント」の冒頭を彷彿させる。しかも、フル編成のオーケストラではなく、弦楽合奏にしてこの迫力である。
続く第2曲のラストも凄い。重厚すぎるコントラバスの低音の上に載った弦楽の響きは華麗にして壮大、加えてアラルガンドもきわめて重々しく、まるでブルックナーの大交響曲のフィナーレであるかのような高揚感がある。繰り返すが、弦楽合奏にしてこの迫力である。
第4曲(06:10~)は一転、人類の悲嘆と苦悩を一身に背負っているかのような深刻な音楽である。遅いテンポで荘重かつ厳粛に奏される音楽には、近年のピリオド奏法でことさらに強調されるようなバロックの優雅、明澄などといった要素は皆無である。彼がこの曲に臨む態度は、「英雄」の葬送行進曲やワーグナーの音楽に対するそれと、なんら変わるところはない。
第5曲と第6曲は原曲の順番と入れ替わっており、5番目には本来なら終曲となるはずのワルツが置かれている(09:20~)。この曲ではワルツの軽快さなどまるで感じさせず、ゆっくりとしたテンポで、ひとつひとつの音を慈しむかのように音楽は進んでいく。この可憐な舞曲がこれほどの哀愁を帯びようとは、フルトヴェングラー以外の演奏からはついぞ感じ取れないような風情である。終曲(12:35~)は、本来なら5曲目(最後から2番目)のはずの曲をフィナーレに持ってきているため曲の展開としてはいささか不自然な点もあるのだが、巨匠の築き上げる圧倒的なクライマックスの前でそのようなつまらない指摘はまるで無意味である。おそるべき説得力としか言いようがない。
このような演奏は、例えばバッハの「マタイ受難曲」のようなドラマティックな内容の曲までもすっきり軽めに演奏してしまうような現在の風潮からすれば、ひどく時代遅れなスタイルということになるだろう。実際、そうやってこの演奏を切り捨てる向きも多いことだろうと思うし、この演奏は今後なかなか顧みられることはなくなっていくのかもしれない。ましてやこの曲はキリストの一生を描くとか、死者の鎮魂を祈るような曲では全くない。また、ロマン派時代の作曲家のように激しい情念や己の生き様のようなものを込めた交響曲などとも性質が違う。
それにもかかわらず、フルトヴェングラーはこの曲に、ベートーヴェンやブラームス、ブルックナーらの交響曲に対するのと全く同じ姿勢で臨んでいるように見える。全力投球である。いや、音楽に対して全力を傾けないことなど、彼には考えられもしないことだったのだろう。彼に匹敵するほどこの曲に全身全霊をもって臨んだ指揮者は、あのバロックの巨匠、カール・リヒターをおいて他にないと筆者は思う(演奏スタイルは全く違うが)。
この演奏は、時代考証的には決して「正しい」演奏ではないかもしれないし、こんな曲に対してここまで大仰な演奏スタイルは、もはや勘違いといってもいいくらいなのかもしれない。しかし、これほどの演奏に対して、正しいだの正しくないだの勘違いだのといった議論が、いったい何になるだろう。その程度の表層的な聴き方しかできないような人々を、筆者は心から憐れに思うし、またそんなレベルの論説がまかり通ってしまう昨今の風潮も嘆かわしく思う。
さて、演奏についてはここまでにして、話はだいぶ変わるけれども、フルトヴェングラーに関する書籍について取り上げたいと思う。音楽評論家の宇野功芳氏の著による「フルトヴェングラーの全名演名盤」(講談社プラスアルファ文庫)という本だ。
この本は、「全名演名盤」と称するとおり、その時点(1998年)におけるフルトヴェングラーの全ての音源について批評がなされている。フルトヴェングラーはそもそも同じ曲で演奏日時が違う録音がたくさん出ていることが多い上に、同じ演奏について複数の音源が出ている(複数のレーベルから出ていたり、同じレーベルでもリマスターして再発売していたりする)ことが少なくない。だが、この本ではその全ての音源(数百点に及ぶ)を網羅しているのだ。いったいどれほどの時間と情熱をかけたことだろうか。
常々より宇野氏がフルトヴェングラーを崇拝することは一通りや二通りではなく、この本の序文においてもひたすらフルトヴェングラーの音楽と人間性を賛美し、こともあろうに、
「名前も人間を知るのにきわめて重要な要素であろう。クナッパーツブッシュとフルトヴェングラーは、これ以上の名前を考えられないほどではないか」
などと言い出す始末なのだ(もしかしたらサイモン・ラトルとかエサ・ペッカ・サロネンとか佐渡裕などは、そもそも名前からしてお気に召さないのかもしれない。ひどい話だが)。
本文もすごい。宇野氏が特に高く評価する、いわゆる「バイロイトの第九」(バイロイト祝祭管弦楽団を指揮したベートーヴェン「交響曲第9番」)など、もう読んでいて恥ずかしくなるほどのベタ褒めっぷりで、かなりの紙面を割いて事細かに演奏を解説しており、まるで実況中継のようである。一方、チャイコフスキーの交響曲第5番では、「これは数多いフルトヴェングラーのCDの中でも、おそらく最悪の演奏ではあるまいか」「ほとんどフルトヴェングラーの才能を疑いたくなる」などの酷評もしており、必ずしも全ての演奏を手放しで絶賛しているわけではなく、文章の端々に宇野氏の趣味の偏向ぶりも垣間見える(その他にも、宇野氏はフルトヴェングラーのモーツァルトやブルックナーは好まないらしい)。
また、フルトヴェングラーには偽盤(他人の指揮した録音を「フルトヴェングラー指揮」と偽って発売しているもの)が数多く存在しているが、宇野氏はそれらに対してさえも丁寧にコメントをつけている。例えば「非フルトヴェングラー盤である。冒頭テーマのポルタメントなど、なかなか甘美な演奏だが、誰の指揮なのだろうか」「非フルトヴェングラー盤。しかし、この凄絶な演奏をした指揮者は誰だろう」といった具合だ。なんという愛情。これなら偽盤の指揮者だって草葉の陰で喜んでいることだろう。
何にでも順番をつけたがるのもこの人の癖である。例えば、「フルトヴェングラーの10点の『エロイカ』を聴き終わって、52年のスタジオ録音の次に選ぶべきものとしては、この53年盤を第一に、つづいては44年盤と50年盤をぜひ持っていたいと思う」など。まぁ、フルトヴェングラーの場合は「エロイカ」に限らず同曲異演があまりにも多いので、初心者にとってはありがたい道案内になるのかもしれず、そのことを一概に非難する気は筆者にもない。
以下、いくつか宇野氏の個性溢れる表現を引用しよう。
「余談だが、彼はこのようなスタイルでブルックナーを振るべきであった。」
…モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」の項で、その演奏を「客観的な眼で全体を捉えている」として賞賛した上での、最後の一文である。アンタ何様だよ。
「フィナーレのコーダはバイロイト盤よりももっと速い超スピード、ということはオケが弾けるはずがないということだ。(中略)僕は一度このテンポで実際に演奏し、ホールではどうひびくのかを試してみたい気持ちでいっぱいである。」
…ベートーヴェン「交響曲第9番」、ベルリン・フィルとの演奏(1937年5月1日)に対するコメント。自らも指揮を手掛ける宇野氏ならではの、実に正直な感想である。筆者もオケマンの端くれとして、「実際に試してみたい」というその気持ちはとてもよくわかる。
「展開部途中のフガートの部分から再現部冒頭にかけては、僕ならば持続するアッチェレランドを掛けたいところだ!」
…エクスクラメーションマークいただきました!それにしてもすごい思い入れだ。誰もアンタの願望なんか聞いてないっちゅうに。
「しかしそんな理屈はどうでもよい。ここはプレスティッシモなのだ。音楽そのものが何よりも速いテンポを要求しているではないか。
このCDの後でほかの演奏を聴くと、あまりにも理性的な態度にかえって反感をおぼえる。ほかの指揮者は単に交通整理をやっているだけだ。あんなのを再創造とか再現芸術とかいうのはおこがましい。フルトヴェングラーの表現でこそベートーヴェンの思想は生き、全人類は遥か星空の下、愛する父に向って連れ去られるのではあるまいか。」
…先にも述べた「バイロイトの第九」。第4楽章のコーダのテンポについて熱く語る。宇野氏の特に思い入れのある演奏で、常にも増して感情剥き出しの文章となっている。
「フルトヴェングラーが遅いのではなく、ほかの指揮者が速すぎるのである。つまり作曲者のテンポ指定に問題があることになる。」
…指揮者に肩入れするあまり、ついに作曲者までディスり始めた。これじゃ本末転倒だ。
「全体として愉しさに不足し、彼が一生懸命になればなるほど曲が貧しく感じられてしまう。フルトヴェングラーがわざわざ指揮をしてくれなくてもよい音楽である。」
…ウェーバー「舞踏への勧誘」。別にアンタのために指揮してるわけじゃねぇから。
「フルトヴェングラーの「第四」はどの盤も表現上の大差がなく、1948年盤一点あれば充分な気がするが、この仏ターラ盤は〔セブンシーズ KICC2113〕に比べて非常に音質が良くなり、生々しさにおいては48年盤を上回る。したがって、熱烈なフルトヴェングラー・ファンはこれを持っていたい。深遠な幻想や凄味は前盤に一歩をゆずるが、比較しなければ充分な名演といえよう。」
…ブラームス「交響曲第4番」(ベルリン・フィル、1949年6月10日)。同一演奏がセブンシーズ、ターラという2つのレーベルから発売されており、宇野氏はどちらも確認の上、その前年に演奏された同曲の録音とも比較して、我々が持つべき盤についてもしっかりアドヴァイスをしてくれている。ものすごい熱意だ。
「最もフルトヴェングラー的な名演である。(中略)いったい何という音色なのだろう。これがオーケストラの音だろうか。いや、違う。これこそフルトヴェングラーの、この上なく純粋な魂に違いない。誰しもフルトヴェングラーが大好きになってしまうことだろう。愛にあふれて、やさしさのきわみで…。」
…シューベルト「ロザムンデ」間奏曲第三番。ここまで言われると、恥ずかしさを通り越して、思わず聴いてみたくなってしまうではないか。
些か揶揄も交えてしまったが、紹介は以上としたい。この本の内容については、筆者には到底受け入れがたい記述も多々あるけれども、フルトヴェングラーの録音に関してこれほど広範に網羅した本は資料的にも大変貴重であろうし、何より、これだけの熱意と愛情をもってひとつひとつの盤にコメントしているような本は他にないと思う。
しかしながら、実は、これだけの音源を揃えたのは宇野氏だけの力ではなく、陰の立役者がいたのである。宇野氏自身があとがきでも述べている通り、平林直哉氏という宇野氏より30年ほど年下の若手(1998年当時)評論家が、これらの同曲異盤の全てを集め、宇野氏に聴くように指示を出していたのであった。
平林氏は業界で「盤鬼」とあだ名されるほどの常軌を逸したレコードオタクで、同じ演奏でも再発売でリマスターが行われたりするたびに、ことごとく購入して音質をチェック、場合によっては「今回のリマスターで音質は悪くなった」などの容赦ない評価も下したりするような人物である。膨大な数のフルトヴェングラーの録音全てを批評するという大事業は、この平林氏の執念なくしては完成しなかったと思われる。
平林氏のフルトヴェングラーに対する愛も宇野氏に引けをとるものではなく、自身でも「フルトヴェングラーを追って」という本を執筆しているほどである。この本は、「フルトヴェングラーのSP、LP、CDを徹底的に比較試聴し、その問題を指摘」「国内外の研究家、コレクターと討議を重ね、ヨーロッパに足を運んで情報を収集」「著者自らフルトヴェングラーのCDを制作し、そこから浮かび上がる数々の新事実を紹介」という、まぁとにかくマニアックすぎる内容のもので、ここでは紹介はしないが、興味のある方はご一読いただければと思う。よほどのマニア以外には推奨できないが。
(余談ながら、平林氏はフルトヴェングラーに限らず古の名指揮者による録音を非常に愛好しており、その愛が高じて、あるいは既発CDのリマスターの悪さに対する怒りが高じて、自ら「GRAND SLAM」というレーベルを立ち上げ、古い録音の復刻を手掛けている。)
宇野氏はちょうど本稿の準備をしていた6月10日、老衰のため86歳で亡くなった。
上に紹介したものに限らず、彼の評論は少なからず不器用で感情的に過ぎるところがあり、内容についても賛否が分かれるものではあるけれども、あの愚直なまでに真摯な情熱を感じさせるような個性的な文章は、他では見ることのできないものであったと思う。謹んでご冥福をお祈りしたい。