今回は第2回目にして早くも趣向を変えて、マーラーの聴き比べである。マーラーの交響曲ほど演奏者による個性が極端に発露する音楽は他にないと思う。まずは交響曲第1番「巨人」からだ。
最初に、クラウス・テンシュテット指揮/シカゴ交響楽団の演奏(1990年)からお聴きいただきたい。テンシュテットは1980年代にロンドン・フィルの音楽監督を務めていたが、アメリカでも非常に高く評価されており、ボストン響やニューヨーク・フィル、フィラデルフィア管などアメリカのオケへの客演も多かった。しかし、シカゴ響と演奏したのはこのとき一度きりのようである。
全楽章を詳細に紹介したいのは山々であるが、ここでは特に第4楽章を取り上げよう。第3楽章から全く間を空けずアタッカで突入するのだが、リンクの動画はここで分割されてしまっており、非常に残念である。ぜひ読者各位にもDVDを購入の上、全曲通してお聴きになるよう強くおすすめしたい。
この第4楽章は、もしかしたらテンシュテットの生涯の中でも最高の演奏のひとつなのではないだろうか。
冒頭、テンポは極めて遅い。凄まじい緊張感のもと、ぶつかり合う不協和音や各楽器群のせめぎ合いを、テンシュテットとシカゴ響は克明に、執拗に、地獄絵図のごとく生々しく描き出す。
テンシュテットの「巨人」の録音は、他にもロンドン・フィルとの数種類のものや北ドイツ放送響のものがあるが、いずれもこの第4楽章冒頭ではこういう遅いテンポはとられていない。このシカゴ響との演奏と同年に行われているロンドン・フィルとの演奏でもテンポはもっと速い(下記動画1参照)。これほどの遅いテンポで、この緊張感を保ちながら演奏を破綻なく進めるのは並のオケでは無理だろう。おそらくロンドン・フィルでは無理だったのだ。世界最強と称されたシカゴ響だからこそ実現できたテンポ設定なのではないだろうか。
続く第2主題部(03:50~)は、それまでの阿鼻叫喚とは全くの異世界に連れていかれる。テンポはますます遅くなり、弱音ながら緊張感は極限に達する。録音で聴いているだけで鳥肌が立つ。ヴァイオリン奏者は凄まじい形相で指揮者を凝視している。弦楽器をはじめとして表現の抉り方は筆舌に尽くしがたい。極めて抒情的な旋律であるにもかかわらず、彼らが目指しているものは決して「美」などではなく、むしろ暗黒の深淵なのである。なんという恐ろしい演奏だろうか。
かりそめのクライマックスを経て、12:40前後から、闇はよりいっそう深まる。木管の奏でる音はまるで彼方の異界からの呼び声のようで、それに応える弦楽器の幽けき声も、もはやこの世のものとは思えない。聴いているだけで地の底まで引き込まれそうだ。15:40あたりは、もう、なんと表現したらよいのか、言葉の無力を感じるばかりだが、どうかぜひ聴いてみてください。
その後のクライマックスは圧倒的な高揚を見せるが、そのクライマックスの凄まじい「光」はそれまでの深く濃い「闇」があってこそのものなのであって、その「闇」と「光」の対比は目も眩むほどに強烈である。実演で聴いていたら、しばらく立ち上がれないほどの衝撃を受けていたことだろう。
それにしても、長らくゲオルク・ショルティの厳しい指導の下で、ドライでシャープかつ洗練された音響を確立してきたはずのシカゴ響が、初めてやって来たテンシュテットの指揮で、これほどまでに生々しくえげつない音楽を演奏するオケに変貌してしまうというのがすごい。若き日のサイモン・ラトルはテンシュテットのリハーサルを見学して感動し、「テンシュテットはどんなオーケストラも独自の方法で短時間に活性化させる、最も偉大な客演指揮者である」と語ったという。シカゴ響とテンシュテットの共演がたった一度きりで終わってしまったことが悔やまれてならない。
もうひとつ、筆者がどうしても挙げておきたい演奏は、エイドリアン・ボールト(1889~1983)の指揮によるものである。演奏は1958年、オケは奇しくもテンシュテットが音楽監督を務めたロンドン・フィルである。
ボールトは主にイギリスで活動した指揮者で、BBC交響楽団やロンドン・フィルの首席指揮者などを歴任したが、長い間ビーチャムやバルビローリなど同世代のイギリス人指揮者の陰に隠れた存在であった。ボールトの演奏は、虚飾を排した格調高いものであり、特に最晩年のベートーヴェンやブラームスは極めて厳格かつ禁欲的な演奏である。それらをご存知の方であれば、「あのボールトがマーラーを!?」と驚かれるかもしれない。確かにボールトは、マーラーのスタジオ録音はこの「巨人」1種類しか残していないが、しかし、すでに1947年には当時珍しかった交響曲第3番を演奏会で取り上げており(CD化もされている。下記動画2参照)、決して無関心だったわけではないはずである。
さてこの「巨人」だが、演奏は期待を裏切らず、徹底的に四角四面、一切の感傷を忌避し、どこまでもインテンポでストイックに力強く進んでいくという、マーラー演奏の常識を全く覆すものといっても過言でない過激演奏なのである。このスタンスは彼のベートーヴェンやブラームスと同じであって、彼としては決して過激な演奏を志向しているつもりではなく、ただ自ら信じるスタイルを、マーラーにおいても全力で実現しているだけだったのかもしれない。しかし、その徹底ぶりは凄まじいの一言に尽きる。よくぞここまでできたものだと思う。現在に至るまでこれほどの演奏を成し遂げた人間は他にいないだろう。
例えば第1楽章や第4楽章のクライマックスのような、普通なら思いっきりアラルガンドをかけるようなところでさえ、ほぼインテンポで突入するのである(特に第4楽章は度肝を抜かれる。普通このあたりって思いっきりためたくなりますよね?むしろそれが人間の本能だと思いません?)。第1楽章のラスト(13:50~)も軽々しい加速は一切せず、あくまで重厚にインテンポを保つ。なんという強靭な意志だろうか!本当は楽譜には全曲を通してルバートをはじめいろいろなテンポの指示があるのだが、一切無視、とまではいかないにしても、ほとんど最小限である。総じてこの演奏には爛熟した後期ロマン派の不健康な気配は微塵もなく、まるで力強い軍隊の行進のようになっている。ベートーヴェンあたりの延長にある音楽のようにさえ感じられる。
特に顕著なのは第2楽章だ。テンポは極めて速い。驚くべきことに、中間部に入っても一切弛緩しないのである。そればかりか中間部の導入4小節のホルン(17:30~)さえも全くテンポを緩めないという鬼畜…もとい、徹底ぶりなのだ。音楽はもはや古典派の交響曲のメヌエットを想起させるほどに軽快である。第3楽章も「葬送行進曲」の陰惨はことさら強調されることなく、ときにはむしろ勇ましく躍動的にさえ聞こえる場面さえある。第4楽章の第2主題(32:50~)も実に流麗であり、テンシュテットのあの凄絶な演奏と同じ譜面を演奏しているとは到底信じがたい。
この演奏は、世の凡百のマーラー演奏の価値など全く無に帰すほどの名演であると、筆者は確信する。むしろ、バーンスタインなどに代わってこの演奏がマーラーのスタンダードになってもおかしくはないのではないかと本気で思う。
驚くのは、この演奏がすでに1958年の時点で行われていることである。当時マーラーの交響曲はまだまだ取り上げられる機会が少なく、イギリスで積極的に取り上げていたのはジョン・バルビローリくらいしかいなかったはずだ(バルビローリの演奏はボールトとは正反対で、極めて情念的なものであった)。アンサンブルは当時としてはかなりの水準の精度であり、また録音も極めて良好である。この録音は1995年に一度Everestというレーベルから発売されていたが、長い間廃盤になっていた。2013年に再びリリースされているが、早くも入手困難とのことである。この演奏が少しでも多くの人に聴かれ、再評価されることを、筆者は願ってやまない。
【動画1】テンシュテット/ロンドン・フィル(1990年1月)
【動画2】ボールト/BBC交響楽団、他(1947年11月)