母は耳が遠く歯は総入れ歯、痛いので歯に脱脂綿

を入れていた。子供心に可哀想だという気持ち

が常に働いてカバってやらねばいけないと言う

気持が常にあった。



これは女性に対してと言うことでは無く、弱い者

に対してと言う事で、決してフェミニストとは違

っていたように思う。



横浜の伊勢崎町の女学校出で、父親は当時、絹の相場

を張って商いも順調だったと聞いている。お店の場所

はやはり伊勢崎町だった。



扱い商品が絹だったので、絹商品を買いに良く外人が

訪れた。

その当時父親は一軒置いた所に事務所をもって、

貿易業をやっていた。


お袋は面食いで、この貿易業をやっている男に目を

つけて、何か口実をつけて近寄る機会を狙っていた

らしい。

店に外人が来ると一軒置いた隣の男の所へ飛んで

行っては通訳を頼んだという。



その男の当時の写真を見ると、シルクハットに真っ

白い背広に蝶ネクタイをして舟の甲板で外人の女性

と手を組んでいる大写しの写真があった。


至ってハイカラ男で,成るほど貿易業には似合っていた。



母親は後になって分ったのだが、面食いだった。

一番好きな俳優はシャルルボワイエでイングリット

バーグマンと競演した「ガス燈」を何回も見て

素敵だねと漏らしていた。


つまり姿形だけを見て千葉の坊主の斡旋で一軒置いた

貿易商の男と一緒になってしまったのだ。


千葉の坊主と言うのは東の今東光と言われるお話上手

な大男で、うちの姉を大変可愛いがっていた。

お袋は2がつの大変気候が不不順の頃、お洒落

なので、髪の毛を洗って、風邪から肺炎をおこした

64歳の若さで亡くなった。

お通夜の時の東の今東光は酒を飲み乍、お袋と

ニヤケ男の逢引の話を面白可笑しく、お通夜を盛り上げて

くれた。


母親は身体は小さかったが、肝っ玉は、海の如く大きく一家

を統括していたと今になって理解するのだ。

但し、姿形が良ければ受け入れてしまうと言う欠点があった。