我が家の犬(保護犬の悲哀) | An Ulterior Weblog

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我が犬はもともと保護犬であることは書いてきた。飼うなら保護犬と前から決めていた。犬を多く助ける意味合いからは多頭飼いをすべきなのだが、我が家は避けている。

 

保護されたときの状態はよくなかった。

食事が悪かったのか、何本か歯が歯槽膿漏のようで抜歯をしているし、避妊手術までも保護団体が行っている。耳にも病気の痕がある。引き取るときに、かかった費用を出さなくてよいのか訊いたが、それには及ばないと固辞されたので、替わりに団体に寄付させて頂いた。「ハウス」といった最低限の躾はついていたが、基本的にはあまり身に付いていなかった。

保護団体の話では、持ち込まれた犬をも引き取っていたペットショップが倒産。その兆候を事前に捉えていて、倒産と同時に保護された犬たちの中の一頭が我が犬である。ショップの前は個人宅で飼われていたらしい。シニア犬をなぜペットショップが、とそのときは思った。

 

のちにボーダーコリーを多頭飼いしている知合いに我が犬を見てもらった。しばらく遊んだりして頂いたあとでの判断はこうだった。この子は狭い空間に押し込められて過ごしてきた時間が長く、誰からも大事には顧みられることもなかったように思える。虐待というよりは無視されてきた感じに近い。だから、家族で精いっぱい愛情をかけてやってほしい。もし、他の犬が同居したら、遠慮して寂しい一生で終わってしまうだろう、と。知合いは自分の犬を連れて来なかった。我が犬にストレスとなるかもしれないと配慮してのことだった。

 

我が家は動物との縁は全くと言っていいほどない。そのせいか、保護団体の話でも知合いの話でも、詳しく話をしても仕方がないといった雰囲気を感じた。今回の鼻腔内腫瘍への対応のきっかけを作って頂いたのも多頭飼いの人だった。そこで、ざっくばらんに手術後に訊いた。うちの犬への見立ては本当のところどうなのかと。その答えを裏付けるようなことが実は犬が我が家に来て間もない頃にすでにあった。

 

以前に書いた長距離散歩のときだった。片道9キロ超を一緒に歩き、帰路についてすぐ、山間のある小さな橋を渡っていた。前から軽トラが通り過ぎていった。と、その音が止り、そのままバックしてきて、視界の中に戻ってきた。橋のど真ん中に車を停めて、40ぐらいの男(1人しか乗っていなかった)が運転席からいきなり訊いてきた。「そのボーダーはオス?若いの?」 挨拶も何もなし。メスでもう8歳か9歳だと答えると、「ああ、残念だ。メスは一杯いるんだ。オスなら交配に貸りようと思ったんだけど。知合いにいませんか?」 いないと答えた。「いませんかぁ…わかりました。」とこれまた礼もなく、軽トラを走らせていった。3年前の初秋の頃の出来事。

 

知合いは答えた。

「初見のとき、ドッグ・ショー用の犬だと思った。見映えがする。メスとしては特別の特徴を有している。しかも、すでに高齢で、保護のときには避妊手術されておらず、歯も悪かった。これらのことは、ショー向けの犬を生み出してもらうための繁殖用の犬として生きてきた可能性が一番高い。今ではブリーダー管理はうるさくはなったが、厳しくなってまだ10年にもなっていない。どこかの怪しいブリーダーのところで、若いときから広くはない場所に隔離され、子作りを何度も繰り返させられた。そして、生めない年齢になると、いかがわしいショップに引き取ってもらったのだろう。母乳を何度も出すことになり、骨や歯が弱くなっている可能性がある。法律が厳しくなる前は、多くの怪しい個人ブリーダーがネットで子犬を販売していた。」(参考:https://ameblo.jp/mini-mums/entry-12222230101.html

先の軽トラの男みたいのが一杯いたそうである。話は続く。

「ショーとかダンスとかアジリティとか、それぞれに適した個体がいる。その特徴をブリーダーは当然理解している。そして、よい個体をみつけると手元に集めて交配を続け、子犬を商品として売る。無理しているから元気に育たない子も出てくる。先の散歩のときに貴方の犬の特徴がいい商品になると思って男は声をかけてきたのだろう。秀でた特徴のある犬は幸せになれない。いい犬ほど幸せになれない。たぶん、ずっと小さいときから辛く過ごしてきたに違いない。自由なんか経験したこともないはず。だから、貴方のところに行き着いたことはあの子にとって残りの人生この上ない幸せなこと。家族で大事にしてやってほしい。」

 

全てがすべて悪いブリーダーということはない。今は厳しくなってきている。それでも、ペットショップであまりに多くの幼児期から売りに出ている犬や猫を見ると問題ではないかと思う。親と離され、社会性が養われず、結果、買われた先で手に負えなくなり、捨てられたり、虐待されたり、保健所送りになったり。

今の我が犬が亡くなったあと、はたして次の犬を飼うことができるかどうかは甚だ疑問だ。それほど家族から愛されている。喪失感は半端ではないだろう。二頭目は無理かもしれない。本当は困難に直面している犬を一頭でも救ってあげたい気持ちではあるのだが。。。

 

 

長いこと躊躇して飼っていなかったのに(飼うことはその命への重責を負う。生半可ではできない)、突如、飼うことに変わったのは母の死が大きなきっかけである。まだ、父親も生きていたので、躊躇してきたのを思い切って飼うことにした。そして、保護犬の里親募集を探して今の犬に。獣医さんも認める手がかからない我慢強い大人しい犬で初心者の我々は本当に助けられている。

 

※※

今の大量の保護犬が出ている状況はどうすればいいのか。先の参考では保護ボランティアを批判している。お門違いだろう。たしかに、悪質ブリーダーのサイクルの中に取り込まれている。では、ボランティアが活動をやめたら犬たちは助かるのか。結局は処分されるかどこかに捨てられるだろう。つまりは商売になっているから悪質ブリーダーが蔓延るのであって、保護ボランティアの行動で左右されなどしない。ペット売買を商業として禁止する以外に根絶など無理である。世のペットブームで大量商品化してしまっている限り、必ず売れ残りや不良品が出る。それが商売というものだ。全体流通量が多くなればなるほど、廃棄商品としての犬が増えるのは原理原則からしてどうしようもない。次善策として強い罰則と監視を行うぐらいが関の山。その場合、飼い主にも責任を持たせる必要がある。でなければ片手落ちだ。どっちが悪くて捨てられたのかわからないような制度は避けなければならない。しかし、それほど先のない独居老人が生きがいとして飼っていて、老人が亡くなることもあるし、病気で面倒を見れなくなることもある。あらゆる状況でなおかつ現実的ないい答えなど無いのかもしれない。

 

”いぬ”の語源ははっきりしていないようだ。縄文時代にすでに家畜化されており、相当古い呼称ではあるらしい。「要らぬ」が転じて「いぬ」になり、「犬死に」などとなったという説もあるが、大嘘だろう。縄文や古代の生活での犬は狩猟に欠かせない大事な存在だったし、他の動物からの襲撃から守る番犬として欠かせなかった。番犬を飼っている家は今もある。それだけではない、神社では狛犬が必ず入口の両側で控えている。起源はライオンのようだが、犬に転じたということは見下す意識はなかったといえる。干支にも使われている。むしろ、現代社会になるに従い、犬が使用物的になり、都合よく扱われる生き物となったという気がする。自分の幼児期を振り返っても犬の食事や生活は悪かったが、飼うことはいい加減な気持ちではやれないという社会認識は強かった。今のようにペットショップやネットで好きに選んで買って、それを気に入らなくなったと捨てるようなことは考えられなかった。昔は犬に触るのが怖かった。襲われかけたことがある。犬は番犬であり、牧場などの労働者だった。野性味あふれていた。しかし、今はほとんどが愛玩犬。自分の犬の飼い方も本当にこれでいいのかと自問するときがある。生い先の長くない犬の後見人の役目を自ら名乗り出たと認識はしているが。