旧北陸本線トンネル群散策(山中トンネル、山中信号場跡&スイッチバック跡、山中ロックシェッドなど) | 乗りつぶしに行ってきた!

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JR全線完乗が目標!(現在は99%乗車済)

伊良谷トンネルからたったの90mで山中トンネルにたどり着きます。

 

 

全長は1,170mでトンネル群の中でも最も長く唯一の1,000m超えとなります。

トンネルの入口近くには案内板が設置されていて、

掘るのに最も難航したトンネルとして紹介されていました。

 

 
案内板の近くには慰霊碑が置かれていてトンネル建設工事中に発生した事故による犠牲者を弔うもので、一応手を合わせておき、
 

 

1896年の完成当時、第2代総理大臣の黒田清隆が揮毫した扁額が敦賀方と今庄方のトンネル上部に掛けられたことから

これまでのトンネルとは扱いが異なるものでした。

現在は扁額は取り外されていますが、案内板のすぐ隣にレプリカ版が設置され敦賀方には『功加于時(事業の功績は時に増していく)』と記されていました。

 

 
先に紹介しますが、無事に通過を終えた今庄方には『徳垂後裔(この鉄路を完成された徳は子々孫々代まで残る)』と記されています。
功績自体は1962年の北陸トンネル開通前までは非常に大きいもので、残炎ながら次第にその功績は薄れたものの生活道路として活用されていることから、孫というよりひ孫の代にもあたる現代人にも徳は残されているように感じました。
 

 

ということでトンネル内を進んでいきます。

どのトンネルにも共通していえることですが、滅多に来ることのない場所であり、そもそも暗闇の中を進むのでトンネル内は走らず安全に注意しながら歩を進めます。

歩き出して3分ほど経ったところで対向から乗用車のライトが見えてきて、走行音も同時に聞こえてきました。

車両は1台しか通れず、元々鉄道用に作られたトンネルなので歩道なんてのはなく、トンネルの壁にへばりつけばかろうじて轢かれずに済むのですが、トンネル群には大体100mおきに待避用のスペースが設けられていました。

大人なら2人か3人は楽に入ることのできる広さでそこに隠れて、猛スピードで敦賀方面に向かう乗用車を見送りました。

 

 

おそらくドライバーは気づいていないはずで、退避スペースがあって助かりました…

先を進むとさらに2分半後にも対向からライトが見えてきて、通過した時にわかったんですが天井上にライトが付いていたのでタクシーでした。

 

 

こんなところもタクシーが通るんだと思っていると、さらに続けて猛スピードで乗用車がもう1台駆け抜けていき、

 

 

2台見送った後に再スタート。

歩き出して15分ほど経って、このトンネル内だけで3度目の対向イベントが発生しました。

今度は赤のパトランプも見えてきて、一瞬でパトカーと察しました。

何も悪いことをしてるつもりはないんですが、少し焦る気持ちを抑えつつ退避スペースに隠れて、スピードを抑えて通過するパトカーを見送りました。

 

 

こんなところまでパトロールお疲れ様です。と後ろ姿を眺めて

 

 

歩き出してから19分で1,170mを歩き抜きようやく出口を抜けました。

 

 

右手には先ほど紹介した『徳垂後裔』の石碑と敦賀方と同じ内容の山中トンネルの案内板のほか、

今庄方には山中スイッチバックの案内板が設置されています。

 

 

トンネルの出口からほんの100mほど進んだところに山中信号場跡が設けられています。

近畿と北陸を大量の物資、多くの人を単線線路で運ぶ際にすれ違えるポイント(信号場)を作っておく必要がありました。

平坦な場所であれば信号場を作って線路を2本敷き、1本は待避線としてもう1本が本線として扱えば良いのですが、

今庄から1000分の25(1,000mのうちに25mの坂を昇り降りする)という急勾配がずっと続くので、上述の信号場では列車を止めようにも止めることができませんでした。

そこで、平坦な区間を人工的に作って、そこに待避線という名の短い線路を敷き、

本線を通過する車両を見送ってから本線に戻った後に引き続き進むようにするスイッチバックが1919年に設置されました。

2年ほど前の豪雨の被害跡地を通過して、

 

 
山中信号場跡の案内板にたどり着きました。
 

 
雨の影響で身体が冷え、20キロ近く山道を自走してきた疲れの影響で写真を撮るので精一杯でしたが、
あとあと読むと非常にわかりやすい説明です。
 

 

今庄方面に向かってアスファルトの下り坂が続いていますが、これが本線で

2本の白ポールの真っ直ぐに伸びる平坦な更地が待避線で、上り線と下り線用とで2本線路が敷かれていたそうです。

 

 

本線を少し下ると待避線は見上げるような形となり、勾配のキツさがわかるかと思います。

 

 

待避線を真っ直ぐ進んでいくと

 

 

ロックシェッドにたどり着き、2両分の車両を停めることができるので、上り線と下り線用で分けていたものと思われます。

 

 
柱はレールでできていて、鹿児島本線鳥栖のホームを彷彿させるものでした。
 

 
山中トンネルに戻ると、実は左奥にもう一つトンネルが設置されていて、こちらは折り返し線が敷かれていました。
 

 

トンネルの中には一応入ることができますが、

 

 

20mほど進むと行き止まりとなります。

 

 

トンネルを作った理由は複線化のためではなく戦後に輸送量が増加してきたために急遽作ったのだそうです。

入るのに一瞬躊躇しますが、行き止まり地点からトンネルの入口まではそんなに距離はないので、昼間の時間帯なら問題ないでしょう。

 

 
再び待避線のロックシェッドの写真を撮っていると急に霧が立ち込めてきました。
早く立ち去るように促されたように思えたので、本線に戻り今庄方面に向かいます。
 

 

25‰の下り坂が続くので、身体は疲れ切っているのですが、

足の回転は勝手に上がりどんどん加速していき、箱根駅伝の6区を走っている気分でした。

1キロほど進むと山中ロックシェッドに到着しました。

 

 
1953年に完成し全長65mで一瞬で通り抜けることができるんですが、プレストレスコンクリート造の構造物としては最古のもので、
1953年当時では最新の技術が山奥の路線に取り込まれていて、その貴重さによって登録有形文化財に指定されています。
 

 
天井は蒸気機関車から出る黒煙で煤けていて、実際にここに線路が通されていたことを証明してくれていました。
 

 
霧が立ち込める中をひたすら進み、
 

 

地中を通る北陸新幹線の新北陸トンネルの上を過ぎて大桐という地区に入りました。

 

 

ここまでくるとだいぶ平坦になり、スピードもゆっくりになったところで旧北陸本線の停車駅でもあった大桐駅跡に到着しました。

 

 

駅が現役であった頃(1961年)の写真が掲示されていました。

 

 

現在は上り線のホーム跡が残るほか、

 

 

D51形蒸気機関車の動輪と

 

 

場内信号場が飾られています。

 

 
駅になる前は信号場として誕生したそうで、
 

 
やけにスペースが広い理由がよくわかりました。
 

 
大桐駅跡から2.4kmほど走ってついにハピラインふくい線の線路と合流して、
現在も現役の北陸トンネルの抗口が300mほど先に見え、
 

 

タイミングよく北陸トンネルを抜けて南今庄に向かう521系を見送ることができました。

 

 

そして、600mほど進んで南今庄に到着。

 

 

ここから2.6km走ると今庄に着くわけですが、身体が疲れて切っていたので、南今庄で終了となりました。

旧北陸本線時代は特急街道で撮影のしやすさからカメコに人気だった南今庄

ハピラインふくい線に変わったことでカメコは0人となり、周囲の空間と同じく静寂が漂う駅となりました。

 

この日は寄り道を含めると29kmほどのランニングをしたわけですが、といってもウォーキング時間や休憩時間も多くあったので、4時間ほどかかりました。

敦賀行きの2両編成の普通電車に乗車して、電波が全く通じない北陸トンネルを経て、11分で敦賀に到着。

いかに現代の鉄道車両、設備が優れているのか、ホームに降り立って出た言葉が「早っ!」でした。

 

全部で10のトンネル、1つのロックシェッド、2つの駅跡、1つの信号場跡(兼スイッチバック跡)と巡って、

そのほとんどの区間で60年ほど前まで鉄道が通っていたなんて、教えてもらわなければわからないくらい険しいものでした。

ただトンネル天井部などに付着した黒煙による煤けや単線分しかないトンネル幅を見ると、

確かにここに鉄道が通っていて廃線となったのを実感する素敵な1日となりました、