例えば、「ギター」というひとつの名詞から
弦が指に食い込む痛みや
ライブで暴れた高揚感や
テクニックに感動した心の震えや
ずっしりと背中に感じる重みや
身体の奥に染み込む音の響きや
弾いている父がカッコ良く見えた幼い記憶が
走馬灯のように再生されるのです。
言葉は、様々な経験や記憶やイマジネーションを集約した結晶のようなもの。
その結晶に触れることで、様々な経験や記憶やイマジネーションを再生させることができる。
言わば、経験・記憶・イマジネーションの
インデックス(見出し)
私たちはインデックスで意志疎通をしているのです。
インデックスから再生されるビジョンは、人によって違います。
だって経験も記憶も頭に浮かぶイマジネーションも人によって違うから。
言葉での会話というものは、
(メールなどの文字でのやりとりも含め)
例えるなら、
絵を見せずにタイトルだけでその絵を説明しているようなもの。
音を聞かせずに曲の説明をしているようなもの。
テレパシーで会話していた頃は、お互いの経験も記憶もイマジネーションも瞬時に理解できたんですよ。
膨大な情報量を、お互いが共有して理解しあっていた。
ということは心を共有していたようなもの。
だからわざワンネスなんて目指す必要がなかったんですね。
すでにひとつだったから。
何度か書いた
心と言葉と行動がズレているということは
インデックスに書かれたことと内容がズレているということ。
「操作マニュアル」
というインデックスのところに従業員名簿がファイリングされてたら困るでしょ?
「鶏肉を使ったレシピ」
のところに卵料理のレシピが載ってたら戸惑うでしょ?
だから、心と言葉と行動を一致させないといけない。
テレパシーを失った私たちは、心と頭にある膨大なイマジネーションを、できるだけ純粋な美しい結晶にして相手に伝える努力がいる。
逆に、ズレた言葉で薄皮を張る人もいます。
どうしてかって?
未熟で愚かな自分を隠すため。
言わばエゴですね。
ありがとうの裏の傲慢さ
ごめんなさいの裏の軽薄さ
こんな大切な言葉でさえ
本当の心を乗せずに使う人が身近にいると悲しくなっちゃいます。
少し厳しいことを言っておきます。
人は
相手の
言葉に行動に
心情に
エゴを感じると
違和感と不快感を抱く
それが
不信感になる
一度与えてしまった不信感を払拭するのは難しいですよ。
相手の経験と記憶に不信感がインプットされ、
「あなた」というインデックスに触れるたびにあなたへの不信感が再生されるからです。
私は、というかたぶんみなさんも、わずかにテレパシー能力は残っていると思うんですよ。
人の言葉に違和感を感じるときは言葉と心のズレを感じ取っている。
その裏にある、エゴに気付いている。
じゃあなぜそのエゴは生まれるのか。
答えは
不安だから。
この不安は分離感がもたらすもの。
じゃあ不安をもたらす分離感をどうしたらいいかって?
次回に続きます。