「eyes」
私と意識を重ねなさい
隠されたものなど
なにひとつない
すべてのものは
最初から
ずっとそこに
あるのだよ
見たいものを
見るがいい
私の眼を
使うがいい
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『すべての人は自分が主人公の物語を生きています。
自分の目を通して見たもの、
自分の五感を通して感じたこと、
それを「世界だ」と言います。
自分の世界は自分にしか分かりません。
ある人はそれをダンスで表現する。
ある人はそれを音楽で表現する。
私はそれを絵と文章で表現する。』
これね、私が一番最初の記事
「役割」で書いた言葉です。
人間は五感で知覚できる範囲でしか
世界を認識できない!
と思っていました。
でもね、
五感を超えた範囲も
人間は知覚する能力や方法を編み出していて
例えば
極限状態と言われるような
苦痛や疲労や
あるいは快楽、トランス状態
スポーツや数学や音楽や芸術をつきつめたもの
そういうものの中に
五感を超えた世界を垣間見ていて
その存在を
深い部分で感じ取っているんだろうなと思います。
この絵はマカバを額に重ねた金色の龍です。
エネルギーの流れが顔の模様になって見えたんですねたぶん。
トラやシマウマの模様も同じ原理なのかもね。
なんのこっちゃ?な方は
を参照してください。
五感を超えたその世界を
誰しもが自由に見ろ
その存在を
”ある”が前提の社会をまず創れ
そういうことのようです。
ちなみに私は幾何学模様も
完全にフリーハンドです。
定規や型を使ったって
完璧な線って描けないんですよ。
点も、角も。
線は幅をもってしまう。
点は面積をもってしまう。
角はそれらの幅で
完璧には存在できない。
完璧な形はイデア界にしか存在しない
はい、出ましたプラトン!
私は自然や生物のもつ
完璧ではないゆらぎが好きです。
トラもシマウマも
個体によって模様ちがうし
地球だって完璧な球体ではないしね、
虹の色がここから何色!とか
季節の境目とか夕暮れがいつからとか
線引きできない曖昧さがあるのが
とっても愛しい。
べつにフリーハンドの言い訳ではないんです、
ただ思い出しただけ。
定規や型を使うのはめんどくさいし
楽しくないだけ。
何かをするときに
楽しいかそうでないかは
かなり重要な判断材料です。
写真はうちの家庭菜園の
ベビーリーフ(たぶん小松菜)。
一枚だけハート型になりました。
奇形?いや、ゆらぎでしょう。