■ 2002/06/21 (Fri)会社のHPの管理人室の文章から
|
1935年6月21日に生まれた
フランソワーズ・サガンは
19歳のときに、悲しみよこんにちは
という小説を書いた。
原題はBonjour Tristesse
この小説を読むと
三島由紀夫の午後の曳航が浮かぶ。
どちらも
思春期のこどもの視点で書かれているからだろうか。
それとも、海の傍での出来事だからだろうか。
午後の曳航に出てくる景色は
全て横浜市内、それも中区の、実物である。
横浜元町で舶来の洋品店を営む女、房子と書かれているのは
元町商店街の入り口にある輸入洋品店のマダム。
小説を片手に歩けば
規則正しいまでに現われてくる現実の街。
これは、のちに
The Sailor Who Fell From Grace With The Sea
(海と共に恵みから落ちた船乗り)
という題で映画になっている。
この映画のラストシーンは
暖かい冬の日差しの中で
海を見ながら、少年たちに望まれるまま
海での航海の様子を語る男
過去の栄光を語る男に差し出される紅茶。
そして午後の陽光の中で少年の手に光るナイフ。
駆け下りてゆく少年たち。
その向こうには穏やかな海が広がり、
一艘の船が曳航されてゆく。。。
この小説は昭和三十八年
三島由紀夫が三十八歳のときに書かれたもの。
そして、彼は昭和四十五年
四十五歳で自死を遂げている。
完璧主義らしい符号だ。
サガンは後にArt must take reality by surprise
(芸術は驚きをもって現実を取らえなければならない)
と語っている。
必然と偶然。どちらも捨てがたい。
=============================
午後の曳航が書かれた頃の昭和38年は
横浜港の過渡期だった
小港の先から間門の三渓園の先、そして磯子へと
浜辺が埋め立てられて、鄙びた磯の風景が消えていく
当時、その話し合いをしていた港湾のおじが
埋め立て地を当時の価格で
坪単価十数円で買うという話をしていた
その後その土地は市が買い取り
叔父達はお金持ちになった
金持ちになった理由は知らない
その時、中学生の私に、船舶のおじが
私も買うなら二万円と
当時の二万円はサラリーマンの月給に等しいお金
というのはずっと後に知ったこと
その当時二万円というお金に対する
概念さえ持ち合わせていなかった
そしてその後、港にクレーンが入った
すると、港湾のおじが
クレーンを入れると
港で働く場所が無くなると言って反対した
このおじは、母の兄だった人を慕って
その兄が興した会社を、自分の人生を賭けたお金で
買い取った人
その伯父の思いは
長い不況は
第一次世界大戦の後の好景気の後にやって来た
株価の暴落でアメリカの経済が疲弊し
それに伴い
諸外国が不況になる、世界恐慌
そして世界の経済が疲弊したことで日本の特産品の
絹が売れなくなり
農家では豊作による過剰米で
お米の値段が下がり、昭和恐慌となっていき
港町横浜には日本中から
若者が仕事を求めて集まり
そして地元の若者と共に街を荒らしていく
当時18歳だった伯父は
祖父が港の仕事をしていたことで
本船から小舟に荷物を下ろす
(沖仲士)という仕事を
見つけて
会社を作り、多くの若者を雇い
その中に船舶のおじもいた
貧しくなった日本は
ブラジルやハワイなどへ、海外への移民政策
そしてアジアを一つの大陸という名目で
他国を支配して
結果、石油の輸出を止めたアメリカと戦争になり
二十歳になった伯父は赤紙で戦地に赴き
戦死してしまい
残る叔父二人でどうにか会社を続けていたが
長く刑務所に入っていた船舶のおじがその会社を
買い取って
なので
伯父の意志である
仕事にあぶれた人のための
港湾で有り続けて欲しかった
船舶のおじはそう話していたが
今のように発展した横浜を観るためには
クレーンの存在は不可欠であり
道具の進化が全ての人を幸せにするわけでは無く
全ての人に幸せになって欲しくて会社を大きくしても
大きくするためには道具の進化が不可欠であり
結局
横浜港を今のように発展させた人には
先見の明が有ったと評価され
伯父が杞憂していた人たちは
寿町という、横浜市民にとって厄介な街を
創り出していった
船舶のおじの話していた
横浜にはお大臣もいないが○食もいない
それが良いところなんだ
これは埋め立てにより
多くの人が横浜の地にやって来て
皆が助け合う新しい街を作った証でもあったようで
当時の高齢者の方、皆さんが話していた
要するに、横浜は自助という
近隣の人同士で
助け合う環境から始まった街であり
伯父と、船舶のおじ
そして横浜の発展に寄与した人
私は自分が住むこの街に
いったい何が出来て来たのだろうか