コロナのパンデミックで、海外で活動していた甥は自宅待機になり
リモートで仕事をし始めたのだが
その矢先父である義兄が急逝して
当時県外の親族は誰も行くことが出来ず
全てが終わった家には
義兄が干した洗濯物と
収穫した野菜が残されていたそうで
甥はそれを見て
義兄が遺した畑で作物を作ることにした、と
農家で生まれ育ったとはいえ
長く海外でパソコンを
相手に仕事をしていた彼は、理論上のことには詳しくても、義兄のように、土の味が解ると、冗談に言うほどの経験はなく
それでも
五年が過ぎると固定客を得られるほどの状況になり、同様なお仲間も出来たようで
昨年は
SixTONESの
高地優吾君の
ソロキャンプ
バラエティーに食材を提供したという連絡もあった
その甥が来春から再びスーツを着て、商社の仕事をするという
この甥が日本国内で
速い電車のprogramming
に関わっていた頃
夫の会社で
パソコンを搬入した
事務機器の会社が
インターネットの分野にも事業を拡大すると
いうことでIDを取得することになった
その会社で初めてのIDなので
0の羅列の最後が1
将来、企業や個人が
欲しがればドメインは高く売れますよ
なんていわれたけど
我が社のネームを売るなんて有り得ない話
なのだが
当時は早い者勝ち
ということで
日本円で数百億での
売買がされていたが
ドメインの売り買いで一番記憶に残っているのはツバル共和国の
TV だったように思う
などと知ったふうなことを書いているが
HTTPとかWWWとか
数字の羅列とか
数字を見れば授業中でも寝落ち出来る私にはちんぷんかんぷんで
当時企業でのHPの
作成料金は百万単位で
一つ目の大学で
情報処理を学んだ娘にも無理と言われて
そんなときに閃いた
甥の仕事の
programmingという
言葉
最初さ多忙を理由に
断られたが
甥の好きなアルコール
強かに摂取させて
酔いに任せて作らせようとした企みが見事に功をなして
会社のHPが出来上がり
その過程をみながら
自作のHPを作ることに
したのだが
BODY bgcolor=
"#FFFFFF"
512px; 、などという文字列に再び挫折し
娘の力を借りて
横濱俳句倶楽部のHPを
漸く開設した
当時の私と同年代の甥は
商社の第一線に返り咲く
自分がやりたいと思う
ことを始めるのに
年齢は関係無いと
しみじみと思う