1963年11月22日
日本時間11月23日
午前五時半
埼玉の川口にある
鋳物工場で住み込みで
働きながら高校に
通っていた夫は
初めての宇宙中継を
住み込みで働く家の
テレビで観ていた
茨城県にある衛星通信の研究所の様子が暫く
流されたあと
画面に映るガスタンクのような球体
単色の、葉の繁らない
木が数本のカルフォルニアの原野
白黒映像なので当たり前だったのだが
当時放送されていた
透明人間の舞台ような
数分後
画面に男の人の姿が
映され
報じられた
大統領暗殺
この時の印象が
強かったのか、夫は
アメリカ本土だけには
行きたくないと言っていたが、ハワイ州には
十年以上年末の十日間
行っていた
この中継を茶の間で
両親と観ていた私は
長々と映る
研究所の様子に
うんざりしていたが
大統領の悲報を聞いたあと
父が仏壇に線香を立て
拝んでいた印象が強く有る
そして犯人逮捕の後
当時の横浜市長の
厚木の基地で
彼と会ったという
コメントを読んで
会ったことがあるということなのか
事件の最中のアリバイ
について話したのか
悩ましく思った
というのが
世紀の宇宙中継の感想
この後
宇宙ゴマという
紐の上を走らせる独楽を見せる大道芸が
流行り
横浜の小学生は
三ツ沢競技場での
市立小学校体育大会で
披露する
オリンピック用の
ボールを持った
マスゲームや
組体操を覚えたりして
その頃同年齢の義弟は
豚を乗り回したり
他の兄達が家を離れたために
義兄の命令下田圃や畑の作業をしたり
それなりに忙しかったようだが
流鏑馬の射手になったのはたぶん
豚乗りの成果だと思う
この後30年ほどして
会社の寮に住み込みで
働きに来た青年の
その母親からの
彼の好きなものと
嫌いなもの
そして朝は弱いから
テレビは九時に消して
朝は起こして、という
注文を、夫はどんな思いで聞いていたのか
注文の多い青年はひと月で辞めてしまった
たぶん日本の若者を
軟弱にしていったのは
過干渉な母親なんだと思うという話を
近隣の東大の教授に話したら、そういう親は
戦前もいて
僕ちゃんの成績について、教え方が悪いと
学校に抗議に来た母親もいたとか
戦前
教師は聖職と呼ばれた時代
いつの時代の母親も
我が子のことになると
という話を母にすると
相手の大怪我より
我が子のかすり傷を
心配するという話を
されて、納得した
女は弱し
されど母は強し
と語ったのは
レ・ミゼラブルを書いた
フランスの小説家
ヴィクトル・ユーゴ
古今東西
母親は強いようだ
11月23日が
宇宙中継の日
という記念日には
なっていない