2003/09/24 (Wed)YAHOOブログから
今日は、1965(昭和40)年に
国鉄の約150の駅に
コンピューターを導入した
みどりの窓口、が出来た日なのだそうだ。
家族揃って電車に乗って旅に出る
ということは
混雑を嫌い、車の運転を厭わない夫のお陰で
あまり無い。
しかし、その、あまり無い中で出かけた時に遭遇した、可笑しなハプニングはとても色濃く。
その時は、姪の結婚式に出るために
家族全員で、福島に向かっていた。
東京駅のホームに着くと
私たちが乗るところに歌手の方が数名
何名かのお供と一緒にいた。
そして、反対側の、上越新幹線の方には
瀬川英子さんが
何故かニコニコしながら立っていた。
新幹線がホームに滑り込んで
いざ、座席に着こうとすると
私達のチケットの日付が違っているという。
新幹線の乗務員室から、旅行会社に連絡を取って貰って、切符を再発行して頂く事になったが、その日の席は既に決まっている、と。
そこで息子はその、歌手の一団の中に座ることになった。
それから暫くして、紙袋を持った女性がひとり乗ってこられた。
また暫くすると、その女性が、乗務員と一緒に何処かへ行かれた。
そして、それと入れ違いに、停まった駅で、警察官が数名乗ってきた。
どうも女性は世に聞く箱師だったようだ
松本清張が乗っていたら、相当華やかでスリリングな小説になりそうな
息子の話では、その歌手の一団の、何方かのお金が掏り取られた、ということだったようだ。
私は、改めて、旅行会社へ連絡をするために、電話のある食堂車両にいくと、既に電話をされている人がいらしたので、待っている間、食堂車のカウンターで飲み物を頼んだ。
暇つぶしに、こんなことがあったのだ、などと話すと、その店の人が、今日は、山川豊さんも乗っているらしいですね、と言う。
本当ですか、それではサインを貰いに行かなければいけませんね、などと、盛り上がっていたら
電話をかけていた方が
では、私は早く席に戻らなければ、と言われた。
見ると、その方は、私たちの直ぐ後ろの席に座っていた方であった。
そして、山川豊さん当人でも有った。
残された私と、お店の方は、あまりの出来事に、唖然としているだけだった。
もちろん、新幹線で寛がれているだろう方にサインなど頂く気にはなれなかった
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今年の八月、山川豊さんの病状をネット上で知り、人の世というのはつくづくと無情なものだと、改めて実感した。
そう言えば、あの旅の、帰りに東京駅で食事を済ませていると
夫が、外国の女性から道を聞かれて、段差のところで親切に荷物をもってあげていたので
ほんと、日本の男の人は外国の女性に甘いよね、と言った私の目の前に
梅宮辰夫さんがいらして
振り向かれて目が合ってしまうという
凄く恥ずかしい思いをしたのも、今は懐かしい
産まれて初めて見た、東海道線の通勤時間帯の、帰宅時の人々に戦いて、タクシーで横浜まで帰宅した夫は、検品という名目で、岐阜や、長崎、鹿児島など、多くの窯元に見学に行き、その度にみどりの窓口て切符を買った日々も今は遠い昔になり
最近のオンラインなどデジタルの新歩で、多くのみどりの窓口が閉鎖されて、2030年にはこれまでの1/3以下になるとか
昭和の人間にとって、それは2020年の、時刻表の休刊と同じくらい寂しくもある
思えばあれ以降、新幹線は音楽を聴きながら睡眠をとる場所と化して、旅という言葉さえ似つかわしくなくなったなったように思う
旅という概念自体が変わったのかもしれない
そしてまた食堂車も小説の一齣になってしまった