茸 | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

 2003/10/03 (Fri)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから 

義母が健在な頃、あみもだし、という茸を送ってもらった。
鳥のレバーを塩漬けにしたような感じの茸だ。

それを、塩出しして、サッと湯がき、大根おろしで和えたり、お味噌汁の具として、食すと、なんともいえない食感がある。

これは、和名を、網茸といい、イグチ科ヌメリイグチ属の、食用になる茸だ。

方言によって、あみこ、あみこもたし、あみたけ、いぐち、あみじこう、あわこ、あわもたし、いぐちばな、じこぼう、じじごけ、かのこなば、しばはり、あみもだし、あみ、あみこもだし、あらね、などと言われるそうだ。

私は蕨を採りに行ったことも、山独活を採ったこともあるけれど、茸だけは、ホダギに生っている椎茸を捥いだことがあるが、まだ、一度も自然のものは採りに行ったことが無い。

茸といえば、昔、夫の実家の近くに、ナメコという茸を栽培されている方がいらした。

その方は、夫たち兄弟と、とても仲が良かったとかで、ある年の暮れに電話が入った。

今年の暮は、夫の里に来てくれますね、という。

そのつもりです、と言うと、願い事がある、と言われた。

彼はが言うには、納屋の、ある場所の梁の所に掛けてある、雀蜂の巣と、動物を捕らえる、トラバサミを、義兄に貰って欲しい、ということだった。

私は、何故そのようなことを私に言うのかよく解らず、また、ワザワザ義兄に言うほどのことでも無いと思い、夫の郷里に行くまではすっかり忘れていた。

そして、大晦日の夜、初めて面会し、大いに喜ばれて、そして、彼は、夫の家を出て、数分後、停車中のトラックに、バイクごと突っ込んで、即死してしまった。

私は、その方の葬儀に行き、そこで、突然、その方の伝言を思い出した。

それを、家の方に伝えると、納屋の、その方が言われたところに行き、そして、とても驚いて帰ってこられた。

ご家族の誰も、そこに、トラバサミと、蜂の巣があることはご存じなかったそうだ。

その方の奥様にたくさんのナメコを頂いて、横浜に帰り、暫くはなんともいえない気持ちにさせられていた。

幻覚を見る茸、というのは聞いたことがあるが、まさか、茸のせいで遺言を聞いたわけでは無いと思う。

俳句では、茸は、くさびらともいい、茸飯、茸山、茸番、茸売り、とともに、秋の季語になる。

山に行き、茸を採って食べるというのは大変野趣に溢れていて、美味しそうに思えるが、素人の目では、たとえ、写真で確認しても、ある種によっては、害がある茸かどうかを見分けるのは、大変難しいそうだ。

どうしても自分で採ってみたいと思う人は、その地域の、プロを頼んで、一緒に行くほうが良いと思う。
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夫の実家から届く茸にもう一つ

香茸(こうたけ)というものがある。

 

夫の実家ではカラスマイタケと呼んでいた

 

細かく刻んでご飯と炊くと、ご飯が少し黒身を帯びるから烏という名が付くのかは分からないが、炊き上がりに少し塩をかけて

 

香りもそうだが、歯触りもよく

味も

美味しい

 

残念なのは松茸のようには

一般の市場には流通しないということ

 

人間とは可笑しなもので

簡単に手に入らないと思うと

一層食べたくなる

 

食べたくなるといえば

横浜中華街に

中華料理の麺などの素材を売る

永楽というお店があり、この頃になると

今年も海月の頭(の酢漬け)要りますか?

という電話が入った

 

店に届くのは11月の末の頃

年の瀬の買い物を兼ねて店に行く


永楽の他にも

 

市場通りの八百屋さんや

中華の乾物を売る店で


青いパパイヤの実を買ったり

冷凍のマンゴスチンを買ったり

大きな袋の白きくらげを買ったり

 

市場通りを抜けた関帝廟通りにある

中学の先輩の店では烏龍茶を買ったり

 

少し奥まった場所の魚屋さんでは

サイマキを買ったり

 

それが、1980年代に

みなとみらい線が通ることになり

中華街の中に

マンションが建つという話になり

多くの店が撤退して

市中の他の場所に移り

中華街の景観も新しくなり

それまでは厳しく禁じられていた

食べ歩きの店が多くなり

 

中華街の中にお寿司屋さんが出来て

路上では甘栗を売る人が目立ち始め

 

ある日、買い物に行くと、永楽の店の前に

弁護士による警告書が張られて

八百屋の夫婦は自宅の近くに移転して

関帝廟通りの先輩の店は

再開発という名目で入っているビルが

取り壊されて

 

この時期に食べたくなるものは

何故か1980年代を最後に

悉く消えていった、そんな気がする

 

今は

中華街の中に牛丼屋さんがあると聞いても

驚くことも無い程、疎遠になっている


 

嘗てネットを通じて知り合った女性が

限界集落というものを基盤にした

自然との共生を目指す街づくりをしたい

と話していたことが有った

 

生活の便利さを求めて、高層のビルを作り

近代化という未来志向で行けば

いつか人は生きるという実感を失うと

 

それで思い出したが

東日本大震災の少し前に

霞が関の

地方分散という話が有り

それに伴い多くの企業も地方に移るという

 

そうなれば地元での就職が適い

大都市の人口も分散され

都会の土地の価格も下がり

これからの人はウサギ小屋ではない

庭の広い家に、自然の豊かな地に

住むことが出来る

 

それを目的に

夫の郷里では、若い世代向けの

分譲住宅を売り出す計画を建てていたが

全ては震災により消えてしまったようだ

 

今は少し郊外に行くと、横浜市内でも

限界集落化した街がある

 

思えば私の生きて来た時代には

大正生まれ、戦前生まれの人がいて

戦後の混乱期、高度成長期という

エネルギーのある時代を凌駕した

大人たちと共に生きていた

 

その大人たちの独特の

若者を迎合しない圧力は

時には煩わしくもあり

時には頼もしくもあった

 

今の時代の大人たちは

この先の若者たちに

どんなふうに評価されるのか

 

今の時代の若い人たちには

本当に食べたい物

果たしてあるのだろうか

 

物わかりのあるふりをして

その実、何も受け入れていない

 

そんな自分を自戒している

 

それとは関係のない話だが

盗んだもので美味しい思いをして

再び盗みを働くことを

キノコ盗った山は忘れない

という

 

今も昔も、自治体管理や国定公園を含めて

全ての山には持ち主が存在するので

勝手に山菜や茸を獲ることは罪になるそうだ