宮沢賢治 | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

2002/08/27 (Tue)YAHOOブログから  

(ゴーシュ)

 

今から、20数年前、夫と二人で

岩手県花巻市まで行ったことがある。

そこで、宮沢賢治の生家を訪ねた。

 

子供の頃

私は宮沢賢治の作品全てが納められた一冊を持っていた。

 

何度も読んだその本は、やがて綴じ糸が解れて、それでも、幾度も裏打ちしながら読んでいたのだが

今、何処を探しても見当たらない。

 

賢治は、相対性理論に触発されて、春と修羅、という詩を書いたという。

 

(すべてがわたくしの中のみんなであるように

みんなのおのおののなかのすべてですから )

 

それを「相対性理論と奇妙な時空の感覚」と説明されている方がいた。

 

確かに、彼の小説は、全体に、どこか、四次元の世界を感じさせる。

 

セロ弾きのゴーシュというお話は、特に、人の持つ潜在的な要素を引き出すための、手段を書き表しているようにも思える。

 

子供の頃は、そんな生真面目な気持ちで読んでいた訳ではない。

このお話を読むと、いつも、月の光が浮かんできた。

 

月光。

 

月の光が煌々と照らす夜の街は、昼間の街とは違う、時空を超えた世界に見えるのは、

何故だろう

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2003/08/27 (Wed)YAHOOブログから  

 

 

彼の詩、雨ニモマケズ、というものを暗誦する授業が中学のときにあった。

 

中国国籍の友人が、朗々と朗読したのを、今も薄く思い出せる。

 

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

 

 

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

 

この詩にはもともと、題名はなく、また出版される予定でもなく、11.3、として書かれていたことと、詩のその先、があることを知ったのは、それから十年以上過ぎてからだった。

 

南無無邊行菩薩 

南無上行菩薩

南無多寳如来

南無妙法蓮華経 

南無釈迦牟尼佛

南無浄行菩薩

南無安立行菩薩

 

これは、法華経の曼荼羅であり、彼がその信者である。

 

文学者の中には、それ故に、彼は「心春と修羅」の中で宇宙の法則というものを認めることが出来えた、と取られる方もいるようだ。

 

中学校で宗教色を出すことは認められなかったのだろう、学校でこのことが話題になった覚えは全くない。

 

十年前、小学校の教師と、偶然、元町の店先でお会いした。

 

そして、その頃話題になっていた、宗教についてお話をした。

 

教師は、自分達の教え方が、何処かで間違っていたのだろうか、と、そう言われた。

 

宮沢賢治は、妹を亡くしてから、妹の死と共に、自分自身の死をも、思ったのだろうと思う。

 

人は何処から来て、何処へ行くのか。

 

それは、どのような宗教を信じようと、信じていまいと、何処かで必ず涌いてくる疑問だ。

 

何故ならば、人は、独りで生まれ、独りで死んでいくのだから、その孤独感を誰かと共有したいという気持ちにもなる。

 

そして、それが宗教というもの、なのだろう。

 

彼は、それを風の又三郎に問いかけている。

 

風の又三郎とは、彼の郷里でいう、座敷童子のことだ。

 

今日は宮沢賢治が生まれた日だ。

 

彼は生涯を、法華経信者として、独身で暮らしたそうだ。

 

泉鏡花は 小説、春昼、の中で、信仰とは、男が女に惚れている状態と同じだと、書き表している。

 

で、私は閃いた。

 

犯罪の影に女あり、というのは

男性が女性の信者と化しているからなのだろうと。

 

====================二つのブログを重ねて

私は歳を追う毎に俗物になっているのを

認識した

 

もうすぐ九月一日

風の又三郎がやって来る