団塊の世代に生まれて(働く場所) | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

夫がアフガニスタンで見た、子どもが銃を持って旅人に試し打ちをさせる姿

 

夫はこの時、なぜこんな幼い子がと、そう思い、よく見れば大人たちも

旅人である夫達の周りにいて、何もすることない様子

 

なぜ子どもにあんなことをさせるのか、と聞くと、仕事が無いという

 

アフガニスタンに流れる川はイランとの国境の渓谷にあり

土地もまた険しい山岳が多くを占めている為に農業に期待が持てない

 

その上、長い歴史の中で多くの民族により支配と敗北を繰り返し

多くの宗教に頼ることになり

 

夫はその様子を見て、何か仕事を作れば、子どもたちを救えるのではと

その為には日本に帰って技術を習得して、再びこの地に戻ろう

 

その時の年齢は21歳

 

国の情勢とかそんなものなど夫にとって何の弊害もならなかったのだろうと思う

 

そんな気持ちを抱いて旅を続け

ギリシャの手前で人生初めてのアパルトヘイトを経験する

 

日本でいう一膳めし屋のような店の入り口に書かれた

カラードとノンカラード

 

しかし、これは当時の日本でも、日本では意味の無いヘイトが存在していた

 

肌の色の違いどころか同じ日本人でありながら、生まれた地によっても

職業によっても、当たり前のように行われていた

 

丁度その頃中学生だった私は中華街の端にある中学に通っていたので

同じ祖国を持つ人同士の思想による、戦争にも似た戦いを見ることもあった

 

また、戦争に負けた腹いせを、嘗て日本の属国であった国の子に

向ける教師もいた

 

私に成田に来ないかという葉書を送って来た友人は

そんな大人が許せなくてその思いを常に熱く語っていた

 

同じ日本人でありながら常にパスポートを帯同する同級生もいた

東北出身だからという理由で、職業が理由で生まれるヘイト

 

その頃の横浜には達磨船という、本船から各船着き場に荷物を運ぶ船があり

その船には休日などないので、家族全員が船の中で暮らし

学齢期になると親元を離れて寺や個人の家、また施設で暮らすことになる

 

それでも大きくなれば働く場所が有った

 

夫がタイの野村医師のもとでアフガニスタンの子どもの話をすると

是非とも実現するようにと言われ

日本に戻り、故郷に帰り、そしてそこで、働くことの出来ない若者の存在を知る

 

彼らは今でいう発達障害者

 

東北の農村には都会のような流れ作業を目的とする工場も無いので

本来は15で去らなければならない自宅で親や兄弟の農作業を手伝っている

 

夫はそれを見て、自分の国のことを一番に考えなければと

翌年に会社を興し、彼らを雇用した

旅行から帰った翌年23歳の時

 

雇った彼らが一人前になるまで、十年の歳月を要したが

夫と10歳も違わない彼らに対して、夫が声を荒げたことも

当然手を挙げたことも無かった

 

そのことは全ての工事現場で有名になり

そのおかげで私は会社内外の人達から

叱咤激励する怖い社長の奥さんと呼ばれるようになった

 

今の時代、職業訓練学校でもある程度の知識がなければ学ぶことが出来ない

周りの人と足並みが揃わない人間は障碍者として保障し

働く場所から排除していく

 

その方向でいいのだろうかと、そう思う