私が子どもの頃、近所のおばさんは大概内職をしていた
当時、漸くインフラが整い始めた頃
白物家電という冷蔵庫も洗濯機も、掃除機もなく、トイレは水洗ではなく
ガスは一口コンロで元栓を開いた後に火を点けるから
ボッと不穏当な音を立てるやつで
間に合わなければ七輪を動員する
冷蔵庫は木製で、炭を売る店で売られている一貫目の氷を鋸で切り分けて
荒縄で縛って貰ったのを買ってきて冷やすというもの
電気釜にはタイマーが無いから朝起きてスイッチを入れる
洗濯機は盥から機械に変わったとはいえ、自動ではないから
水を入れて、洗剤を入れて洗い、付いている絞り機の取っ手を回して絞り
盥で濯いで再び取っ手を回して絞る
時々少なくなった歯磨き粉の容器を絞ったりして
当然湯沸かし器も電子レンジも無い
そんな中で母親は、当時港で働く人は朝六時には出勤していたので
それに間に合うように朝食を作り、コンビニは無いからお弁当を作る
その後子ども達にお弁当を持たせて送り出し、洗濯をして
サンマタを使って高いところに干して
ハタキと箒と雑巾で家を掃除して
一休みして、それから内職をする
内職は葬式の花輪用の花を作ったり、工場の薇を組み合わせたり
スカーフの縁かがりをしたり、封筒貼りをしたり
中華街のお店で出す焼売や肉まんや粽を近所の家に作りに行ったり
氷を入れただけの冷蔵庫では日持ちがしないから
三時頃洗濯を取り込んで、ご近所で誘い合わせて買い物に行く
ママ友の集まりなんて精々氷を買った帰りに道の端っこで立ち話をするくらいで
セーターが解れれば編み直し、靴下に穴が開けば塞ぎ
服にかぎ裂きを作ればかがり、町内会の草刈りに行き
幼い子どもがいれば常に背中に背負い
夕方六時には夫を含めた家族で夕餉を囲み
銭湯に行き
そうやって一日は暮れていく
電子レンジについて、私が初めて目にしたのは近所の釣り船屋さんが
当時始まった埋め立ての保証金で買った大きなもので
使うたびに近所の電源が落ちてしまうという、そんなものだった
昭和の東京オリンピックが始まる頃
冷蔵庫も炊飯器もガスレンジも湯沸かし器もやって来て、トイレは水洗になり
掃除機も自動洗濯機も家庭の中に入ってきたが
母親の代の人は相変わらず内職をしていた
当時はいろんな工場が有ったので、内職もたくさんあった
結婚して、昼間、外に勤めていないことに疎外感を感じた私は
近くの家のおばさんに内職を紹介して貰ったことが有った
螺子を組み合わせるだけの簡単な仕事
そう思って舐めてかかったら、とてもでないが出来ない
一日一つや二つ仕上げたところで一円にもならない
仕方なく
紹介してくれたおばさんに賄賂を渡して作って貰って止めた
そして気がつけば多くの工場が人件費の安い海外に移転して
内職そのものが無くなっていた
コロナが流行り始めた頃、複数年の経済の衰退を懸念して
当時の総理がその工場の国内回帰を経済界に依頼したと報じていたが
最近、製造工場の国内回帰が目立っているという情報をネットで知り
功を奏したのだろうと思った
残念だが当の総理は今はいない
だが、日本はこの先もずっとあり続けるのだから
国内に誰でもが働けるシステムを作るのは大切なことだとしみじみと思う