800万人のうちの一人の夢 | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

昨年の四月二十九日に夫の夢についてのブログを書き始めた

 

夫が中学生の頃に夢見たこと

その夢のために15歳にして自分の人生を歩き始めたこと

 

海外に行き、その国の役に立つ

その夢のために二十歳でフランスに行く船に乗り旅に出たこと

その旅先でいろいろな人と巡り合ったこと

そして故郷に帰り、自国にこそ助けなければならない人がいたこと

 

夫は中学生の頃見た夢を実現させるために

自分の人生のほぼすべてを賭けた

 

不用意で有ったとはいえ

政治的な運動に参加してしまったために

合格しながら入学出来なかった私に

 

就職先を紹介してくれた当時の政治経済の担任が

希望しない大学に行って途中で辞めるより

最初からいかないほうが良い

中途半端なことをすると、人生の全てが中途半端になってしまう

 

どんな仕事でも三日持てば三か月は続けられる

三か月続けば三年続いていく

そうなれば自分の経歴になる

 

合わないと思ったらすぐに辞めなさい

大丈夫だと思ったら三日続けなさい

三か月が過ぎたら

どれだけ辞めたくなっても三年は我慢しなさい、と

 

私はその約束を守り、三年が過ぎた日に退職して

港の仕事に就いたが

三年の経歴で事務職ではなく営業に配属された

 

その経験を持って夫の会社の事務を請け負い

三十数年自主退職することなく勤め上げた

 

大学に落ちたではなく、入れないと分かった時

進路指導の高校の教師が知人の大学教授を紹介してくれて

追試の枠を取ってくれた

しかし私は勘違いしてその日にはいかず

合格発表と書かれた日に行った

 

単線の、薄暗い駅から憂鬱な気持ちで大学まで歩いていくと

事務の女性から、追試は昨日です、と言われた

 

とても気の毒そうな顔をしたその女性に挨拶をすると

再び駅に戻り、その駅でふいに笑いがこみ上げてきた

 

私が母校の教師になりたかったのは自分の夢ではなく

安定した仕事に就くことで親を安心させたい、それだけのことだった

 

母校の先生たちは高校生の私を職員会議の席に座らせ

一年後輩の授業さえさせてくれた

 

その全てが私の思い違いで一瞬にして消えたのだが

自宅最寄りの駅から自宅へ向かう途中

何故か私の心はすっきりとしていた

 

ただ、その分、自分の将来が何も見えなくなっていた

挙句卒業式は済んでいるのにバケツを持って廊下に立っていろと叱られた

 

紹介された会社には古くからの事務員がいて

たぶんその人はボスの息子さんが好きだったのだろうと思う

なんでもないことに難癖をつけるメンドクサイ人だった

 

その上、ハリスの風というガム一つで、結婚をなどというボスの息子の本心も

測りかねていた

 

連れていかれるのはダイイチホテルのカウンターバーや

帝国ホテルの薄暗いレインボールーム

マッチをすると、見目麗しい女性がやって来て注文を聞いてくれる

 

二十歳にもならない娘がそんなところに行ったところで嬉しいわけがない

 

思えば、当時、会社に就職するに当たっては、保証人が必要で

その保証人は母の姉の夫で有り、実際は良く分からないが

叔母の言うにはいろいろな会社の顧問をしている人

 

恐らくボスの息子さんはその伯父との人脈を繋ぎたかったのだろうと思う

 

そんな時に不思議な訛りのある英語を話す夫と出会った

夫を紹介してくれたのは企業研修に来ていたインド人

私は漠然と、夫は中近東の人なのだろうと思っていた

 

その夫から自分の夢について語られ、その夢を実現するために協力して

と言われて一緒になった

 

ある意味特に希望のない人生に希望を持たせてくれた言葉でもあった

 

ただ夫は将来大金持ちになって贅沢をさせるからとは言わなかった

 

私自身の夢は、本当は困っているお年寄りを助ける仕事をすること

だったのだが、時すでに遅し、私自身が年寄りの側にいるので

とりあえず電車で席を譲ったり

エレベーターのボタンを押してあげたりしている

 

夢というものはなるべく早く見て

その夢に全力で立ち向かっていく

それこそが最良の人生、だとしみじみと思う