人力車 | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

東京の日本橋で

くるま屋日本橋(現日本橋 松武屋)が制定。

1870年(明治3年)のこの日

人力車を発明したグループの3人(鈴木徳次郎、高山幸助、和泉要助)に東京府より

人力車の製造と営業の許可が下り、日本橋のたもとから営業を開始した。

 

日なのだそう

 

私の母の小学校の同級生は

お父さんがFORD社の日本の社長の運転をしていたというのが自慢だった

 

私の記憶が正しければ、FORD社の代理店は山下町に有ったと思うので

そこから神奈川区の子安まで人力車を毎日のように運転していたとなると

相当の労力だったろうと思う

 

私が東京の出版社に勤めている頃、前の会社の人たちが早朝皆で並んでいたから

何が有ったのかと聞くと、社員旅行のバスを待っているという

 

私は会社に出勤し、うちでは社員旅行は無いのですか?と聞くと

ボスも私に結婚を迫ったボスの息子さんも少し困ったような顔をして

 

当時、世の中は1950年代の後半、軍事特需による神武景気から始まり

国土建国の岩戸景気、そしてオリンピック特需、いざなぎ景気と

好景気が続いていた

 

後の経済評論家に依れば、その当時の日本は

90%の労働者と10%の営業職という好景気の黄金比を成していたという

 

その当時、新聞各社では、地方の経済を活性化させるために

いろいろな観光地を下地にした連載小説を載せていた

 

それに呼応するように多くの旅館が建設され

テレビではミステリードラマで後押ししたが

世の中がバブルになり、海外が近くなると、個人で行くにはアクセスの悪い

地方の旅館は一斉に衰退していった

 

建設業界に耐震に対する規制が無かったころ建てられた旅館は

まるで中世の城のように山肌や崖に沿って建てられ、いざ解体するとなると

途方もない金額がかかり、その上、借財により債権が幾つも移って

終いには持ち主不明の建物として放置され

 

15年ほど前、その建物がネットで廃墟として紹介されて

辛うじて1980年代にその旅館に行った人々が懐かしく思う時代になったようだ

 

1980年代、バブル終焉によって衰退の一途を辿ったのは

首都圏近県の箱根や熱海だったが、今は新しい形で回復している

 

私が勤めていた会社は、みんなが一斉に休めるという状況ではない

 

それを分かっていての確認だったのだが、翌朝出勤すると

社長の息子さんが今から社員旅行に行けという

 

外に車を待たせてあると

 

急いで階段を降りると、そこに一台の人力車が停まっていた

三階の窓から声がするので、見上げると、それで都内観光をして

帰ったら前の料理屋に行って来いと、怒鳴られた

 

で、赤い毛布を掛けて貰って、築地本願寺とかそこらあたりを走って貰い

料理屋に行くと、芸者さんが出迎えてくれて踊りまで踊ってくれた

 

時間にして二時間くらいだろうか、私の最初で最後の社員旅行は終わった

 

夫の会社では従業員や外注の人たちでの社員旅行を行ったが

事務所を守る私が行くことは無かった

 

社員旅行というと、今でも人力車を思い出し

母の幼馴染の自慢話を思い出す