昭和40年代後半にはまだ学生運動の名残があり
黄色いヘルメットを被り、演説する人により
願書を貰いに行くのさえ苦労させられた
受験になるとゲリラ攻撃を懸念して、何人かの友人の話では当日の朝電話で
試験会場が告げられたという
私の時代は既に団塊ほどの受験生もなく
新規に大学が建ち始めていて
特に女子短大などは名前さえ書けば大丈夫と揶揄されるよう状況だった
私自身、中学の同窓生の絡みで学生運動を疑われ、試験に合格しながら
門前払いされた大学の代わりに行こうとした大学は。実用英語検定の結果だけで
認められたようなものだったし、高校の教師からの推薦という形もあった
それでも大学に入った、それだけがプライドになり
高卒とは一線を画し、大学に行っていない人とは付き合えないとう同窓生もいた
業界紙の出版社に勤めながら来年受験をすればよい
恩師の言葉でその道を選んだ私に
大学と家柄を捨てて彼女と逃避行をするために
入社して来たという某〇道の後継ぎという方が
大学に行ってどれだけ頑張って勉強したからと言って
皆が教授になれるわけではないけれど
一つのことを懸命に極めれば小学校卒だけでも教授になれる
そう話してくれた
会社を社会大学だと思って多くを学び、吸収すればよい
別に大学教授になりたいわけでは無かったが、とても納得はした
そしてこの言葉で私は夫の会社を切り盛りするための多くの知恵を得た
この人は後に黒塗りの車に黒服を着た数人の男性が来られて
ご自宅に帰り、後に何度かテレビでお見かけしたが
まだお若くして亡くなられてしまった
生まれながらにして道が決められている人
とても大きな組織の中で跡を継ぐ者として不自由なく育ったであろうに
あまり品が良いとも言えない記者の先輩たちと一緒にお酒を飲み、談笑し
机の上で雑魚寝をする
あの時の弾けるような笑顔と、きらきらとした眼差しを思うと
人間は決してお金や名誉だけで幸せになれる訳ではないんだと実感する
そんな私には年上の東大を出た遊び友達が三人ほどいたが
彼らは全員、当時は大学に行く人間が少なくて並んでいれば入れたという
そしてこの三人は一切身なりに構わず、春夏秋冬絣のような着物姿で
兵児帯をして、足元には革靴という身形で
ひとりの人など、昼間はほとんど家に籠っていたので
ご近所の人から今でいうニート認定されていた
実際はロシア文学の翻訳の仕事をしていたそうだが
たぶん、学びたくて大学に行った人にとって大学がどこで有るか
自分が周りからどう評価されているか、など気にもならないんだと思う
最近、中学、高校の受験を失敗すると、見放される
両親が揃っていながら、生活に関する一切、無干渉になる家庭があると
ネットで見た
娘が小学生の時に中学受験に懸命になり、学校の放課後行事に一切参加させず
塾に通わせている親がいた
その甲斐あって私立の中学、高校、短大と恙無く進級し、短大卒業の朝
おかげさまで娘はよい縁談を得て嫁ぎました、と挨拶された
その妹さんは母親の言葉には逆らって公立の中学に行ったそうだが
以降、母親は彼女の世話を一切しなかったとか
もう一人、娘の同級生は、兄たちが東大に入り
末の妹が東大に匹敵するだろう大学に入ったにも関わらず
家族の恥だと言われたと嘆いていた
自分の思うような結果を出さない
自分の意に沿わない
だから見放す
その中で生まれる家庭内ホームレスという言葉
他所から見えない分、独りだけで抱えていく重さと孤独感
母親や父親が一人で懸命に働いても貧しくて満足な食事が出来ない
その貧しさより、ずっと深刻な心の貧しさ
今更始まったことではないが
子どもが受験に失敗したことで一切を見放してしまう親達は
どんな生き方をして大人になったのだろうか