中学を終えた夫が東京に働きに出るころ、集団就職列車というものが有りました。
この集団就職列車の始まりは1935年の凶作で生活に困窮した
青森など東北の農村の若者を大阪鉄工業組合大阪合金会が集団採用して
臨時列車を走らせたのが始まりだとか。
夫は阿武隈鉄道の丸森線と東北本線で東京に来たので
集団就職列車という臨時列車とは無縁だったようですが
東京に着いたときに駅にあふれる学生服の団体に驚いたと話していました。
夫が就職する当時は地方から就職していく子は金の卵と呼ばれて
今なら誇大広告になりそうな華やかな就職情報に夢を抱き
喜んで都会に来るのだけど、実際は工場での流れ作業で有ったり
家族経営の小さな店の店員で有ったり、と
若い人が夢見たような仕事場では無かったそうで。
そうやって集団で都会に来た人たちを慰めるために
秋田市出身の加藤さんが1953年に若い根っこの会という
若者のたまり場を作り
その亜流のようなものが横浜でも作られていて
近所のお兄さんが若い根っこの会の仲間同士の結婚式に
お米を三合持って出かけて行ったのを思い出します。
その他にも、歌声喫茶というものが出来
そこで歌っていた人たちが有名な歌手になっていくのですが
歌声喫茶はもともと大衆食堂でかかっていたロシア民謡を学生たちが
歌い始めたことで広まっていったのだとか。
思えば当時は民謡酒場とか、歌声広場とか
フラッシュモブのようにその場にいた人たちが
集団で歌う場所がたくさん有って
集団で一体感を楽しむ時間が多くあったように思います。
そしてそれゆえなのか認知症と診断された夫は
YouTubeで聞き覚えのある歌が流れると
歌詞も見ずに一緒に歌い始めるので、若い頃の経験は無駄ではないと
そう思います。
1954年 (昭和29年)から1975年〈昭和50年〉まで続けられた
集団就職列車は東北のみならず日本いろいろなところから東京に向かっていたそうですが
集団就職列車の実際の目的は、若い女性が集団で在来線に乗って、
酔客などからの色々と危険な行為から若い女性を守るため
という記事を読んで
東日本大震災後の復興へのボランティアをライフワークとしている娘が
独りで陸前高田まで出かけていく様子に、時代は変わったとしみじみ思います。