団塊の世代と言われる約800万の中の一人の男が夢を見てその夢を叶えた話(共通の夢) | ミナミのブログ

ミナミのブログ

のんびり、、まったり

夫たち団塊の世代の人に聞くと必ず、子ども時代に抱いた夢が有ると言います。
それは

大人になってお金を稼ぐようになったら
好きなだけ【何か=自分が好きなもの】を買って食べるというもの。

それも、お饅頭で有ったり、魚肉ソーセージで有ったり、羊羹で有ったり。

この話になると私の周りの団塊世代の人は大いに盛り上がっていました。

たぶん今でも目を輝かせて話してくれると思います。

 

ある意味団塊の世代の人たちはそれを目標にして昼夜惜しまずに働いたのでは

と思えるほど切実な夢だったようです。


夫たちが子どもの頃は子だくさんの家が多く

夫の兄弟も七男一女

夫の兄弟とそれぞれの連れ合いとその子たちが一堂に会すると

それはもう賑やかで。


当時、お盆やお正月に行ったときに料理を作るのは夫の母と長兄の奥さん。
料理の食材は、冬は夫の兄弟が山から獲ってきた山鳥と
義母の手製の茸や筍の味噌漬け、そして、夫が言うには人参いか

夏は春先に採った筍や薇、蕨などを保存していたものと、身欠き鰊と

立子山の凍み豆腐を煮たもの。


その調理法は、子どもが入ってしまいそうなお鍋に山鳥の肉とか
野菜をふんだんに入れ 
新幹線の福島駅に着く寸前の田んぼの中に看板があった大七というお酒とお砂糖と
あとはお醤油を入れるだけのごくシンプルなもの。

大七は身欠き鰊の煮物にも、人参いかにも使われるので、お酒を飲まなくても

充分に賑やかになる訳で。

夫の兄弟の上のほうの人たちは夫婦ともにお酒をよく飲んで、義父もまた飲むので

一升瓶では足りず

マスマスハンジョウという名目の二升五号のお酒が並んでいたりいしました。


ある時、食べてばかりでは申し訳ないので

横浜から鳥の手羽先で作った唐揚げを持参すると大いに喜んでくれて
夫がもっと作ってあげてというので
義母に手羽先を売るお店を聞くと怪訝な顔をして
義父から一体鶏を何羽潰せばよいのかと聞かれ

ブロイラーというものは
当時はまだ全国区ではなかったことを理解したことがあります。
 

ブロイラーは1955年に
雄鶏や卵を産まなくなった鶏を使用したのが始まりだそうです。

思えば横浜でも私が幼い頃はクリスマスシーズンになると
裸の鶏が丸ごとお肉屋さんのお店の前に吊るされていた記憶がありました。
母に聞いたところ、その頃は殆どの家で鶏を飼い、卵を産ませて
そのあとに店に持って行って潰して貰っていたのだとか。

子どもたちは今のようなお菓子を容易く買える場面など有る訳もなく

夫は山で葡萄や桑の実や木通などを採って来て食べたそうです。

たまには道路の近くに生っている桃を食べることもあったけど、あれは

子ども達が食べて良いから道端近くに植えてあると言っていましたが

たぶん違うと思います。

 

子ども達が唯一お菓子を得られるのは十五夜の夜に縁側に出されたお団子だったとか。

 

夫の故郷はつきだてという名前で、月を見る高殿があったことに由来すると

聞いて、なんとも風情のある風習なんだろうと思いました。

 

食べ物は野に出て調達するのですから、遊び道具も然り、

肥後守というナイフをポケットに入れ木の枝や竹などを取って来て遊び道具を作ったり
怪我をすれば蓬の葉を揉んで血止めにして。
 

女の子はクローバーを繋げて縄跳びにしたり、冠にしたり
大豆や小豆を入れてお手玉を作ったり。

 

そんな中で、川の流れで自分が進む道を覚え、空の雲で天候の成り行きを覚え

知らぬ間に観天望気を体得するわけで。
 

でもそれも小学四年生辺りまでで、五年生になると家族の一員として
家の手伝いをしたそうです。


私は海の近くに住んでいたので、山に生る木の実で思い出すのは木苺と
犬枇杷と山下公園のバスプールに有った椎の実
そして男の子たちが採ってくる秘密の木。肉桂の木の欠片です。

シナモンという香辛料でもあります。


この木は外国人墓地の隣の元町公園の一角に一本だけあるそうなんですが
代々限られた男の子にだけ伝承されている木なのだとか。

限られた子は、その近くのアル大きな木に登ることが出来る子。

私達低学年の子はお兄さんからその木の欠片を分けてもらうと
一斉に港が見える丘に走り出すのです。
子どもって不思議ですよね。集団になると何故か奇声を上げて走る。
当時の大人はその姿を見て、何かいいことが有ったのかと聞いてくれました。

 

先日近くの竹林で子どもたちが同じような声を出していたので

何かいいことが有ったのかと聞くと、カブト虫がいたようです。

 

そういえば、夫のディサービスに見えていたおにいさんも庭でカナヘビを見つけると

大きな声で、カナヘビだ、と言っていたので

何か獲物を捕らえると雄叫びを上げるのは狩猟民族の名残なのかも知れません。


団塊の世代が中学生になる頃までの日本は、都会も地方も平等に貧しく
逞しくもあったようです。

 

因みに私は子どもの頃、蕎麦清という落語を聞いて以来、

お蕎麦を食べることが出来なくなり、現在に至ります。

なので、もし有名人になったりして、テレビに出て

お店紹介とか言う番組に出ることになってお蕎麦を食べろと言われたら

無理なので、これからもなるべく有名にならないよう生きていく予定です。