
街で幾組か、晴れ姿の親子を見かけました。
七五三は、元々は、髪置、帯解、袴着、としてあったものを、神社の氏子入りという、
七歳にして初めて、社会的な、人として認められることとマッチして始まったお祝いのようです。
社会的といえば、私が数えの七つのとき、父の郷里である、鹿児島県大隈半島曽於郡輝北町百引に
行った際、七つの家の門で、七草粥を分けて貰って食べるという儀式をしたことが有ります。
この行事には、大人は付いて歩かず、子ども同士で行くのが慣わしだ、ということ以外は、
父に聞かないままでした。
父はその地の庄屋の息子だったそうですが、一人息子だった父が横浜に来てからは、鹿児島の親族とも
お話しする機会もなく、詳しい内容を知りませんが、恐らくは、村の仲間になるための
行事であったのではなかろうかと思います。
子ども同士といえば、幼い頃、米軍のハウスの子と一緒にハロウィンに参加したときも、
一緒に行くのは、八歳までの子どもだけだったと記憶しています。
そして、お菓子を貰うのは、その年初めてハロウィンに参加する子ども達で、
お菓子をくれるか、悪戯をされるか、どちらがいいか?って、その家の人に聞くのも
その初参加の子だったように思います。
ですから、私は今でも、ハロウィンはあの七草粥の行事と同様に、子どもがその村(地域)に馴染み、
村(地域)の一員として認められるための行事だと思っています。
七五三の始まりの、髪置とは、子どもは生まれてから(数えの)三歳になるまで、男女とも丸坊主で
三歳になって初めて髪を伸ばす祝いなのだそうです。
昭和九年の季語集には、長寿を祈って、麻で作った白髪の鬘を被って氏神に参ったとあります。
帯解は、女の子が七歳、男の子が五歳のとき、それまでの、紐付きの、つっ丈の着物から、
大人と同じ着物になる儀式です。ですから、紐解、紐直、紐落、ともいいます。
元々は、男女とも九歳のときに行われた行事なのだそうです。
袴着とは、五歳の男の子が初めて袴を着用する儀式で、着袴の儀ともいいます。
袴着で判るように、これらの行事は、武家社会の中で行われていたもので、
今に伝わる、七五三という行事は、江戸時代の営業目的で広められたものということです。
肝心の七五三は、伊勢山皇大神宮に行ったのですが、私は階段でこけて、とっても厳しい顔で
写真に納まっています。
亡き母言うに、シチロッキンだから、ってことだそうですけど、このシチロッキンという言葉が
一体何処から来たのか、トンと判りません。
七五三 七五三祝(しめいわい) 千歳飴