

と言っても、別に珍しい場所などではなく、ご自宅からバス停にでて来られて、一緒のバスに乗って、同じところ(終点である駅)で降りただけなんですけど。
その瀬川プロが現れるホンの少し前、元ご近所の瀬川さんの家の生垣に咲いている薔薇の花が咲いているのを見つけて、匂いをかいでいたのです。
瀬川さんの奥さんとは、子どもの学校が同じだったので、一緒にPTAの役員をやったくらいの間柄なので、それほど親しいわけでもなく、かといって、全く知らないわけでもなく。
その息子さんである瀬川プロとは、我が家が班長さんのとき、町内会費か赤い羽根募金かを集めに行ったとき会話したくらいしか、記憶に無いので、特に会話もなかったんですけど。
ただ、ちょっと前にこの方が本を出して、その本を買ったので、奥さんに、サインをもらえますか、というと、とても喜んで下さって、是非息子に言ってと仰ってくれたので、そのうちサインを頼みに行こうかなって思っていたものですから、ああ、あの本を今もってたらなあ、くらいの惜しさはありましたけど。
その家の生垣の薔薇は、薄いピンクの濃淡、、ピンクというより、薄桃色と表現したほうが合っていそうです。その昔の絵本に出てくるケーキに乗っている薔薇というか。
濃い緑の生垣の中から、丁度、目の高さあたりに咲いていて、これがまたとてもいい匂いなんです。
元の家のある町は、垣に赤い花咲く、ではないですけど、ふるさとというには近すぎて、祖父母の代から、母も私も幼い頃暮していた、実際のふるさとであるこの地に回帰してきた私にとっては、とりあえず通り過ぎた町に等しいんですけど、この薔薇の花だけは、忘れ難く、丁度咲いているときに出会えてよかったなって思いました。
引越しの際、電話番号を残すために借りた仮事務所も、六月には本格的に移転が決まり、何か目的でもない限り、尋ねることもない町になるわけですから、たぶん、今回があの薔薇との巡り合いも、最後かもしれません。
元の家を新築する前には、庭にたくさんの木が植えられていて。金雀児。金木犀。海棠。紫陽花。椿。山吹。沈丁花。連翹。そして、真っ赤な蔓薔薇もあり、この赤い小さな薔薇もまた、柑橘系のいい匂いがしたのです。
古い家を解体したその日、まるで嵐のように庭が掘り起こされて、そして全ての木々は消えてしまいました。
今でもあの薔薇の匂いが恋しくて、薔薇の花を見つけると、匂いをかぐ癖があります。
もし、あの庭が残っていたら、たぶん、この町に帰って来る事は無かっただろうと、今でも思います。
ま、時は移るもであり、過去には戻らないものであり、です。
今の場所に移り住む前、母がこの場所に暮していた頃、週末のたびに泊りに来ていたのですが、五月の終わりごろ、マンションの通路に薔薇の香りが漂っていたのです。
あたりを見渡しても、何処かに薔薇が咲いている様子は無く、裏手の小藪の上は山手地区で、その家の庭にはたくさんの薔薇が咲いているので、もしかするとその匂いが降りてきたのかもしれません。
それで、港の見える丘公園に咲く薔薇を思い出し、早速出かけて行くと、走り梅雨の重たい空気に押されて、公園前の道路全体に薔薇の香りが溢れていました。
薔薇の思い出はもう一つあり、昔、俳句をたしなむ伯母が磯子の赤十字病院に入院したとき、お見舞いに、赤い薔薇を花束にして持っていったことがあります。
伯母は大層喜んでくれて、亡くなる少し前まで、そのことを思い出話として母に伝えていたと聞きました。
ですから、伯母の墓前には、刺を取って貰った薔薇を供えてあげます。
俳句の季語には、夏の季語として、薔薇(ばら そうび) しょうび 花ばら 薔薇かおる 薔薇散る 薔薇園 とあり、他にも、薔薇の日曜日 というものがあります。
これは、花の日 とも 花の日曜日 ともいい プロテスタントの日曜学校の行事なのだそうです。
が、日曜学校に通っていた記憶のある私の思い出の中には、残念なことに、薔薇の日曜日も花の日曜日もありません。
薔薇はまた、冬枯れの頃にも愛でられて、冬薔薇(ふゆそうび) 寒薔薇(かんそうび) 冬の薔薇 という季語もあります。
今年ももうすぐ港の見える丘公園の薔薇が咲き出します。