ここのところ、イジメというものについて、ずっと考えていたんですけど、
いまニュースになっている、大津のイジメ、というものは、イジメではなく、
ある種、集団による殺人に等しいように思えます。
一番の責任は、中学という義務教育の世界で、一人の子どもが理不尽な状況にあり続けたのに、
教師を含む、周りの大人が一切対処しなかったことにあると思います。
いわゆる、イジメというものは、ある程度の集団になると老若男女問わずに、起こりうることだと思います。
私自身もPTAの会合で、あるご家庭のお母さんがPTA会費も支払わない(払えなかった)のに
学校の委員を引き受けたので撤回させるべき、というのを聞き、なぜそれがいけないのか、
と発言すると、他の役員全員から完璧な外しに遭ったことがあります。
PTAの三役だろうが、一般の父母だろうが、子どもが学校に通っているから、関わっている、
ってだけなのに、その世界を中心に生きている人たちは、自分たちが集団で人を差別してることを
自覚していなかったようです。
呆れたことに、なかには学校の教師まで会長にお追従して、私のみならず、
我が子まで異端視する始末で。
けど、子どもはもともと、生まれながらにして、従業員たちや、多くの来訪者の大人たちに揉まれながら
成長してきたので、学校という枠に収まらない、学校側から見れば、
異端児であったので、今更、という感もありましたし、私はくじ引きで当たったから、
仕方なくその業務についていただけなので、何を言われようと、気にもならなかったけど、
同じ時期に、PTA活動で軋轢を生んでしまったお母さんが自殺をした、というニュースを知り、
我が子のために学校に行っていただろうに、なぜ残された子の悲しみを思わなかったのだろうか?
と、やりきれない気持ちになりました。
当時の私は、いじめは、100%大人の責任だと、そう思っていましたし、
追い詰められるのはいじめられる側の弱さだとも思っていました。
けれど、その後、 ゲートボール仲間から無視されていると、悩みを打ち明けたお年寄りとか、
夫が自分を無視して、若い姪と目の前でいちゃいちゃしてそれを注意すると暴力を振るわれる、などという、
夫婦間のいじめなるものを相談されたりして、そんなふうに起きたいろんな状況を顧みると、
人と人とのつながりは、主従で成り立っていて、そのバランスが壊れたとき、
起きるんだと思うようになりました。
例えば親子でも、夫婦でも、兄弟でも、友達でも、同僚でも、また、自分自身に対しても、
お互いの間で、主と、従のバランスが取れていると、それはいい家族であり、いい兄弟であり、
親友であり、心地よい人生であり。
そのバランスが崩れて、どちらかが強く意識しだすと、それは最悪な関係になってしまう。
狭い世界の中で、主と従が、それぞれ、その立場に固執してしまい、
その世界しか見えなくなってしまったとき、一方的な破壊行為が行われてしまう。
それは、学校であったり地域であったり、家庭の中であったり、と、普通であれば、
心地よいはずの世界の中で。
だから、常に従を強いられる人は、死を持って抗議するとか、死の世界に逃げてしまうとか、
そんな悲しい結末を、自分だけで決めてしまうのかもしれない。
特に小、中、高校生など、ティーンエイジとは、世の中で自分を理解しているのは、自分だけ、
なんて、思い込んでしまうお年頃でもあったりする。
真剣に悩むのは、真剣に生きている子。聞き分けが良い子。真面目な子。みんなと仲良くしたい子。
常に従の立場に自分を追い込んでしまう子。
ペギー葉山だって、学生時代の中で、美しい死を夢見た、なんて歌っているように、
学校という狭い世界の中で、その世界だけが自分の世界だと思ってしまうと、
どんどん自分を追い込んでしまうのです。
その世界しかない、と、そう思ったとき、逃げ場を失ってしまう。
けど、そう思っているその世界は、人生上において、たったひとつの点にしか過ぎないのです。
みんな一緒なのは、その場所で集まっているその時だけであって、
ほんの一歩でも その場所から離れれば、違う世界や違う出会いが見つかっていくわけであり。
いじめられて悲しいときは泣けばいい。悔しがればいい。
そうやって、自分の「主」を取り戻して欲しい。
死んではダメです。
死んで、一番損をするのは、それまで成長してきたお金を無駄にする自分自身であり、
死んで、本当に悲しむのは、こんな自分の存在を申し訳ないと思う、その自分の親や、
一番の親友や理解者だけなんです。
それも、一生悲しませるんです。アナタを救えなかったことを苦しむんです。
いじめた子とか、先生とか、世の中だって、ニュースになれば一時的に大騒ぎしても、
しまいには忘れてしまうんです。
その上、自分自身には永遠に思えている、いじめのあった世界自体、消えてしまうんです。
生きていれば、新しい世界に出会うチャンスは無限にあるんです。
いじめられている子と同様に、いじめている人間も、自己の中の主従のバランスを崩しているんですから、
その崩れた世界から抜け出すのは、とても勇気のいることだけど、自力ではい出すことしか、
出来ないことでもあるんです。ある種、新興宗教と同じようなものかもしれません。
学校という狭い世界で虐められている子は、たった一言でいいから、
周りの大人に、声に出して、苦しいよ、って、訴えましょう。
周りの大人たちは、その言葉がどれだけ深刻なものなのか、
どれだけの勇気をもって発したのかを、知って欲しいです。
お子さんがいじめに遭っているお父さん、お母さんもそうです。
親にとって、我が子がいじめられているのでは、と思うのは、とても辛いことだと思います、けど、
虐められているお子さんの中に理由なんか求めるよりも、
いじめている側と、我が子との、主従のバランスが崩れたんだから、
それを直してやる努力が必要で、
それは、学校と両方の家庭で行われて、初めて有効なことであり、
学校や、いじめを行なっている子の親にその自覚がなければ、
その場所を一旦離れる、というのも、ひとつの手だと思って欲しいです。
学校は、小学校ではたった六年、中学ではたった三年です。
時には、転校という手段をとっても、
それは逃げるんではなくて、わが子を、悪環境から守るということでもあります。
一度でも 暴力を振るわれたら、その時点で傷害罪になるのですから、
診断書を持って警察に行きましょう。
子どもが意味なくふさぎこんだり、目的のわからないことにお金を使うようになったのであれば、
顔にアザをつくってきた、服が破かれている、というのであれば、
それは我が子の命にかかわることなのだから、騒ぎを大きくしてしまえばいいのです。
学校側が何もしてくれなければ、著名な教育者や新聞社など社会に訴えるのも手です。
一番大切なのは、学校でもなく、世間体でもなく、我が子、なんです。
人と人との関わりは、主と、従であるけれど、自分自身にとっての自分は、常に『主』であるべきなのです。
今、いじめにあって、辛いと思う人は、
主たる自分がいるから、いろんな世界が生まれる。
主たる自分がいるから、時が流れる。
主たる自分がいるから、苦しみも、悲しみも、喜びも、夢も、湧いてくる。
主たる自分がいるから、時には、誰かの意見や行動に従う楽しさを実感出来る。
自分という主役がいるから、この人生という劇場がある。
そう思って欲しいです。
その劇をさっさとやめる、というのは、死ぬんではなくて、
いじめられる世界とは違う世界を作ることです。
そう出来るのは、主役のアナタだけなんです。